続・新・「自分をみつめる禅問答」
前回の『新・「自分をみつめる禅問答」』では、
以下の記述について書き忘れてしまっていた。
P268~
「問い」を「問い」のままに、それでも向き合い続ける以外に、とるべき道はないのだ。そして共にその「問い」に沿い続けることが「宗教者」の面目であると、私は思う。「天罰」だの「因果応報」だのは、ただの愚か者の言い草である。
↑
そこで今回は上記の記述についてである。
>「問い」を「問い」のままに、それでも向き合い続ける…とは?
それは、「問い」の答えを聞いて知って分かっても納得いかない場合である。
例えば、それが突然の交通事故の場合~
「問い」
何故、私達家族は事故にあったの?
何故、私は生き残って兄は亡くなったの?
何故、事故を起こした人が無傷で私は重症なの?
これらの「問い」に「答え」は存在する。
しかし、その「答え」を知っても分かっても…
その答えに納得も満足もできずに…
結局、この「問い」は、心の中に存在し続けるのだろう…
だから、
「…向き合い続ける以外に、とるべき道はないのだ。」と
なり得るしかないのだろう…
それでも…人は考え続けるのだろう!
神様の思し召しだから…とか、
運命のいたずらだから…とか、
日頃の行いが悪いから…とか、
それで、何とか自分を納得させようと頑張れるモノであろう。
でも…そんなの自己満足に過ぎない…。
生あるモノにとって、死は必然で当然なモノ、
ただ…何時、何処で、誰に、「死」が訪れるかは偶然である。
その偶然とは、一つ一つの出来事の重なり合いの偶然が必然の「死」となり得ただけ…
生あるモノは、「死」の必然性の中で、
偶然の出来事の連続・重なり合いの結果、
「死」という必然と対面する、のだろう…
前回の『新・「自分をみつめる禅問答」』では、
以下の記述について書き忘れてしまっていた。
P268~
「問い」を「問い」のままに、それでも向き合い続ける以外に、とるべき道はないのだ。そして共にその「問い」に沿い続けることが「宗教者」の面目であると、私は思う。「天罰」だの「因果応報」だのは、ただの愚か者の言い草である。
↑
そこで今回は上記の記述についてである。
>「問い」を「問い」のままに、それでも向き合い続ける…とは?
それは、「問い」の答えを聞いて知って分かっても納得いかない場合である。
例えば、それが突然の交通事故の場合~
「問い」
何故、私達家族は事故にあったの?
何故、私は生き残って兄は亡くなったの?
何故、事故を起こした人が無傷で私は重症なの?
これらの「問い」に「答え」は存在する。
しかし、その「答え」を知っても分かっても…
その答えに納得も満足もできずに…
結局、この「問い」は、心の中に存在し続けるのだろう…
だから、
「…向き合い続ける以外に、とるべき道はないのだ。」と
なり得るしかないのだろう…
それでも…人は考え続けるのだろう!
神様の思し召しだから…とか、
運命のいたずらだから…とか、
日頃の行いが悪いから…とか、
それで、何とか自分を納得させようと頑張れるモノであろう。
でも…そんなの自己満足に過ぎない…。
生あるモノにとって、死は必然で当然なモノ、
ただ…何時、何処で、誰に、「死」が訪れるかは偶然である。
その偶然とは、一つ一つの出来事の重なり合いの偶然が必然の「死」となり得ただけ…
生あるモノは、「死」の必然性の中で、
偶然の出来事の連続・重なり合いの結果、
「死」という必然と対面する、のだろう…