禅問答の正解…
ここ数日間、
「初めての『禅問答』」―山田史生―(光文社新書)
を読んでいる。
そんな中、本日、ふと…以下のような事に気づいた。
禅問答・公案は、言葉で書かれている。
その禅問答の正解は「言葉」ではなく「認識」である。
それも体現してしまった認識となろう。
「生命史観」によると、動物の像・認識は、その瞬間を生きる為のモノであり、
認識・像を自覚する=即運動・行動が起こり得るモノ。
問題に対する自己の認識の表現である言葉なら「正解」であるが…
予め問題を知っている場合、その問題の正解を言えたとしても、
それは自己の認識の表現としての言葉でない。
仮に正解を自分の言葉で表現できたとしても、
それは自己の真の実力とは言えない…
禅問答の正解は、瞬間的な自己の認識・表現の中身と言える。
それは、瞬間的に表れた表情、行動、言葉、感情の全てが
求める「禅的正解」と一致して初めて、「自分的正解」なのだろう。
禅の言葉に「日々好日」というのがある。
別言するなら「生きているって素晴らしい」となろう。
最愛の者が亡くなって死にたくなる程に悲しい時、
その悲しみを感じられる今の自分が素晴らしい…
死にそうに苦しくて死にたいと思った時、死にたいと思える自分が素晴らしい…
天に舞い上がる程に嬉しい時、そんな自分が素晴らしい…
何があっても、何が起こっても、生きている自分は素晴らしい、
死んでしまった人達は、自己の中で生きている事が素晴らしい、
自分が死ねば、全ては「無」、
何も感じない、何も感じない事さえ感じない。
「絶対的な無」となろう。
何もないより、何かある方が素晴らしい。
例え素晴らしいと思えない物事でも、
それが「ある」という事自体が素晴らしい。
以上を言葉ではなく、自己の認識・像として
今この瞬間に描ける事が「日々好日」なのだろう。