新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

個体と全体

2018-06-03 16:54:09 | 弁証法

先日、勤務している小学校の運動会を観に行った。
九時開始だったのに、到着は十時半過ぎであった。

到着と殆ど同時に、
三、四年生の「ソーラン節」の入場開始であった。

それは、南中ソーラン節であり、
大学生が演じた動画を、子供達と一緒に音楽の授業で視た。

運動会で七十数人の子供達が一斉に踊るソーラン節は、
なかなか見応えのあるモノだった。

私は、その中で踊っている特別支援学級の二人を視ていた。
一人は、とても楽しそうに踊っており、
もう一人は、真剣な顔付で真面目に踊っていた。

この二人、個体として、好感が持てていても、
全体の中では、腰が高く、動きが合っていない。
別言するなら、それは全体の中で、目立ってしまうような踊り方であった。

この場合の、踊り方上手・下手の基準は、動画で視た大学生の踊り方である。
子供達は、動画の「南中ソーラン」を目指して踊るよう先生達は指導していた。

これは、全体として素晴らしく観えていも、
個体を視ると下手である、いう事でもある。

もっとも、この準備は、二、三週間位なので、
もっともっと練習したなら、
その下手な個体も全体の影響・相互浸透で上手になって行くのだろう。

ここが仮に、全体の踊りが下手で、一人だけ上手だった場合はどうだろう。
私には、動画という基準がある。
しかし、動画を視ていない人の基準は何か?
それは、全体との同一性であり、全体との一致であろうか…

みんなと同じような踊り方が上手、
みんなと違っていたら、それは下手。

これは、言うなれば、「みにくいアヒルの子」なのだろう?!











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判断と判断力

2018-06-03 09:32:15 | 弁証法

現在、要介護3の親父と同居中である。
そんな親父と関わって思う事は以下のような事である。

有効な判断力を持ち得ていても、
的確な判断を下せるとは限らない。

今年の3月で89歳となって親父、
根っからの商売人の親父、
金勘定は得意中の得意の親父、
儲け話には敏感に反応して、
裸一貫・無一文から、それなりの富を築き上げた親父、
そんな親父の判断力には、目を見張るモノがある(と私は思っている)

そんな親父と話していて、最近時々感じる事は、
『その判断はおかしい』である。

そんな時、更に突っ込んで話してみたら気付けた。
それは、私でも知っている親父自身の体験・経験的な事実を思い出せていない。

的確な判断には、その事に関わる情報が不可欠である。

情報には、自己に関係する情報と関係しない情報とが考えられる。
それは、経験・体験的な情報と知識的な情報、と言えよう。

現在の親父の判断は、他人との話の中では的確である。
でも親父自身の案件についての判断には狂いが生じている。

他人事では的確、自分事では不的確な理由は?
それは、他人事では、当人から十分な情報が得られる。
しかし、自分事では、過去の出来事を思い出せない事が多く、
情報不足となってしまう事がある。


ならば、その判断力の形成過程とは?
それは、今までの人生の過程での養成・創出・形成。

親父の有効な判断力は、
時々の商売上の判断の失敗・成功からのモノである。

実体・頭脳が老化しても、機能・判断力は健在である。
でも、脳細胞の老化から記憶の想起が困難となってしまっている現在、
親父の判断力は健在でも、常に的確な判断を下せるとは限らなくなっている。


論理的に同様な事が…
過去にスポーツ選手だった人が、年を取ってそのスポーツで大怪我。
それは、年を取っても認識・機能としての身体の操作法は健在。
しかし、実体・筋肉・骨格…等が衰えてしっまている為であろう。

別言するなら、機能と実体の老化の相違であり、
それは実体の弁証法性と機能の弁証法性の相違であろう。


認識・身体の操作力は、想像を続ける事で現状維持は可能である。
でも実体・筋力・骨格…等の維持は、実体的な運動負荷が必要である。

日々の人生における、現実界と観念界の内実の相違であろう。

実体と機能の相対的独立、絶対的独立…そんな事もあるのだろうが…


「知識と論理」を結びつけるモノが弁証法なのだろうか?
事実から論理を抽出するのも弁証法?
論理から理論を形成するのも弁証法?


















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