新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

「二重性」について~

2021-05-22 08:54:11 | 言葉の概念


人間の食事~
ただ生きる為だけの食事。
健康に生きる為の食事。


人間の学び~
生きる為だけの学び。
豊かに生きる為の学び。


言葉の使用~
言葉の意味を熟知して自分の思い・感情表現としての言葉。
意味もよく分からず、フィーリング的な他人の言葉を発する。

知っている事~
未体験でも「知っている」
体験して「知っている」

体験の結果~
薄く浅く知る。
熟知して識。


見る~
間接的に見る。
直接的に見る。

みる~
写真・動画で視る。
五感で関わりながら見る。


見る~
ただただ見るだけ。
触りながら見る。


弁証法~
科学的な弁証法。
学問的な弁証法。


科学の変化・運動の弁証法。
世界の変化・運動の弁証法。


弁証法の学び~
生活を豊かにする為の学び。
眼前の問題解決の為の学び。

弁証法の創り方~
書物・知識から学び創る。
実生活で体験的に創る。


弁証法の使い方~
個別科学的に使う。
一般科学的に使う。

モノの見方。
自分の立場から見る。
他人の立場から見る。
自分と他人の立場から見る。


世界観~
観念論的世界観。
唯物論的世界観。
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論理というモノは…

2021-05-19 15:51:10 | 言葉・概念
算数は「数」から始まっている。
それは、言うなれば、算数の世界では「数」の存在は事実である、という事。
その算数の世界に事実的に存在している「数」を使っての計算が算数の世界の論理…。

さて問題です。

●●と××があります。全部で幾つ?
答えは、●が二個と×が二個で、二+二=四となります。
これを事実的論理とするなら、

[  ]が二つ、一つが[●●]なら、●は全部で幾つ?
これは、
[ ]は、[ ]+[ ]=[ ][ ]=二[ ]、
●は、[●●]×二=[●●][●●]=四●、となります。

この場合、
「+」算は事実的な計算で、
「×」算は論理的な計算…と言えよう。

更に関数となれば、
その対象の捉え方が「算数」から「数学」へと論理レベルが上がったと言え…
当然に、その計算方法も、より一層論理的になっていくのだろう…

論理と論理レベル…
論理と論理の比較において、
より事実に近い論理を「事実的な論理」、
事実から離れた論理を「論理的な論理」と表現可能なのだろう。






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「禅」的な生き方とは?

2021-05-16 12:53:19 | 禅問答・公案



「禅」というモノについて考えて思った事は、

「禅」的な生き方とは?
物事に囚われない自由な心であろう。

「物事」とは?
「モノ」と「コト」である。

「囚われない」とは?
「囚われる」とは?


眼前の世界・現実にはモノもコトもない。
あるのは目の前の事実だけである。

その事実をモノやコトとするのは自分のアタマとココロである。
「囚われる」とは、眼前の事実に対して「ココロやアタマ」が囚われている事。
これは眼前の現実・事実を全体・世界の変化・運動の一部である事を認識できていないアタマとココロ。


前回の「野鴨」について~


「鴨が飛んでいった」とは、
眼前の鴨が水面・地面から羽ばたいて、
私(達)から見えなくなっていった、という事実であろう。


それに対して「さっきの鴨」または「あの鴨」と問うなら、
過去の記憶を呼び戻して「分からない」であろうが…

それを「どこへ飛んでいったのか」と問われ、
その即答ならば「え?何が?」となろう。

悩み・苦しみ・悲しみ…は、
ココロ・感情として人の中にはあるモノではあるが…
それは、事実の全体像を、そのようなに感じ取ったモノである。

でも…全体像ではなく、一つ一つ分解して部分・部分で捉えたなら、
そこには、喜怒哀楽…様々な感情変化が起こり得るだろう。

「禅」とは…

人が今この瞬間に対応して生きているなら、
そこにある感情は「快・不快」であり、
後悔、悲しみ、喜び、怒り、楽しみ…は、ないのだろう。

人間の感情は過去の体験・過去との比較なら生じるモノなのだろう。
人間が他の動物と同様に過去との比較なく、今だけを生きているなら、
そこにあるのは、今を生きている快感なのだろう。


「禅」の求とめているモノは、
今この瞬間を生きている!という快感である。

いうなれば、それは動物的な生き方であるが…
そうは言っても…
頑張っても踏ん張っても「禅」的には生きられないのが人間であろう。

人が「『禅』的に生きよう」と思った瞬間に、
それは「禅」というモノに囚われてしまい、
既にもう「『禅』的に生きて」はいかい事なのだから…


これは、言うなれば…
現代人にとっては「禅」を理解できたとしても、
その「禅」の生き方を実行するのは至難である、という事であろう。

「禅的な生き方」とは目的意識を持って目指すモノではなく、
人が今を生きている中で自然成長的に修得していくモノだから…


ならば、どうするか?
それは、常に囚われているだろう自己のアタマとココロの自覚・認識であろう。
「囚われていない」と思っていても「囚われている」という危機感認識・自覚。
「囚われている」と思っていても「囚われていない」という安心感認識・自覚。


別言するなら、
「囚われている」全体像なら「囚われていない」部分像の想起。
「囚われていない」全体像なら「囚われている」部分像の想起。
「囚われている」部分像なら「囚われていない」全体像の想起。
「囚われていない」部分像なら「囚われている」全体像の想起。


もっとも…
思っていて、その通りにできるのも人間なら
思っていても、その通りにはでき難い難いのも、
また人間なのだが…







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「禅」というモノについて…

2021-05-16 11:35:10 | 禅問答・公案


「禅」については、師範が以下のような事を書ている。
「問題を問題とする己を問題として、その問題を解決する方法」

「では、その具体的解決法とは?」を考えてみた。
先ずは以下公案・禅問答からである。



「野鴨」

師匠が弟子と歩いている。すると野原から野鴨の一群が飛び去っていった。
 それを見た師匠が、弟子に聞いた。
 「あれは何だ」
 「野鴨です」
 「どこへ飛んでいったのか」
 「わかりません。ただ飛んでいったのみです」
 答えを聞いた師匠は、急に弟子の鼻を強くつまんだ。
 「痛い!」
 「なんだ、飛び去ったというが、野鴨はここにいるではないか」
 弟子は悟りを開いた。


これを私的に書き変えるなら~

「あれは何だ」
「野鴨です」
「どこへ飛んでいったのか」

弟子「え!何が?」
師匠「そうか…(行ってしまったか)…」


「風になびく旗」

風になびく旗を見ながら、二人の僧が言い争っていた。
「これは旗が動いている」
「違う。風が動いているのだ」
 そこに通りかかったもう1人の僧侶がいった。
「旗が動くのでも、風が動くのでもない。あなたたちの心が動いているのだ」








以上の二つの例文について…



「野鴨」と「風になびく旗」の共通性は?
「運動している対象」と「それを認識している己」。

では、相違は?
なびく運動を認識持続可能な「旗」と飛び去って運動認識不能な「野鴨」。


対象が「なびく」運動に必要なモノは、旗の構造と旗をなびかせ風・空気の存在。
「なびく旗」を認識する己に必要なモノは、その「なびく」運動を感覚する感覚器官と頭脳。


「禅」に必要なモノは、対象に囚われない己の自由な心である。
もっとも…私的には自由な頭脳活動であるが…


「野鴨」の鴨は飛び去ったのに、
「鴨はどこへ行った?」と問うのは、
「鴨の事が気になっている」⇔「まだ心に鴨がいる」
だから師匠の言葉「なんだ、飛び去ったというが、野鴨はここにいるではないか」

それは鴨は飛び去った筈の鴨が、
弟子の心に「ただ飛び去ったのみ…」の鴨という形で残っている。
その事を師匠は指摘したのだろう。


この問答の正解は、
「対象の鴨が飛び去った」なら「己の心の中に鴨も飛び去った」
心の中から飛び去った鴨だから
師匠の「どこへ飛んでいった?」に対して
弟子は「え!何が?」となり得る。


この質問が
「鴨はどこへ行った?」なら解答は「どの鴨?」。
「さっき鴨はどこへ飛んでいった?」なら「師匠の心!」
「あの鴨はどこへ行くのだろう?」なら「私達の心へ!」




ここで思い起こすのは「人は二度死ぬ」と言葉である。
一度目は自身の現実的な死であり、
二度目は他人の記憶の中の死消滅。



「なびく旗」では、「野鴨」とは違って「なびく旗」は認識可能。
一度「なびく」と認識し、なびき続けているなら
認識している人の心の中ではそのまま変わっていない・「動いて」いない。


だから「旗がなびく」のも「風が動く」のも運動である。
でも、旗がなびき続ける、風が動きつづける、なら
それは、「なびく・動く」という運動が変化していない。

自由な心とは常に変化し続ける心。
その現実に常に対応し続けるのが心。


禅とは生きる事。
生きるとは生物が常に現実の変化ついていけてる事。
人間が現実に対応するとは、頭脳活動が現実に対応する事。
頭脳活動の対応とは、アタマの対応とココロ対応、である。

生きる為の頭と生きる為の心とは?
現実は無限の連続で存在するモノ。
その対応には、線的対応と点的対応が考えられる。


アタマに求められる対応は「線的」であり、
ココロに求められる対応は「点的」である。
と私は考えた。

ふっと目にとまった旗を見て「なびく旗」と認識した瞬間はココロの働き・感情でも、
同じなびく旗を見続けているなら感情は変化しない・動かない、

同様に「風が動いている」と認識したらから、
その後は心・感情も動かない。

それなので感情的に動き続けているのは
「旗が動くのでも、風が動くのでもない。あなたたちの心が動いているのだ」
となったのだろう。











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壁を越える…

2021-05-09 12:41:08 | 悟りシリーズ

ゴールデンウイークからアニメ「キングダム」を見始め、
今日やっと、シーズン3の#5話まで見終わった。
第六話は、5月10日である。


アニメの中でよく使われている言葉…
と言うより私が意識した言葉に
「壁を越えてやる」とか、「超えるべき壁」…があった。

この「壁…」とは、天下の大将軍を目指している主人公の一人である童の「信」が
敵対する大将軍・軍隊との戦いで「…越えるべき壁…」と表現したモノである。

それらは主人公である「信」の行く道の前に立ちはだかった障害物…。
では、何故に「越えるべき壁」であって、「迂回すべき壁」ではないのか…

それは、その「道」によって決める

「天下の大将軍になる為の道を邪魔する壁」か、
「天下の大将軍として戦う道を邪魔する壁」か…


大将軍になるには、実力養成が不可欠である。
それには、強者との戦いを避けていてはダメである。
とは…言っても強者と戦って死ねば「道」は立たれる。


目の前に「壁」が聳え立った時、
先ず、すべきことは、「壁」を直視する事。
次に、己の「進むべき道」の再確認である。

例え…高く自分には越えられそうにないと思える「壁」であっても、
取り敢えず最大限の神経を使い「登る事を試みる」。
自力でダメなら、他力を借りてでも「登る試み」をする。

それでも、越えられない壁なら、壁をぶち破って進む。
壁のぶち破りなら、自力・他力・爆薬力…とあらゆる工夫もあり。

それでもダメなら…
一度退却して、道具・武器・爆薬…を揃えて再度の挑戦であろう。
もっとも…それだけの時間的猶予がある…ならばだが…

「天下の大将軍への実力養成への道」では、
避けていては実力養成にはなり得ない。
だから、何としても一度退却しても「壁は越える」べきモノ。


しかし、
「天下の大将軍の道」なら、敢えて「壁を越える」必要はなく…
「壁を越える」事が、唯一の勝利への道なら越えるべきモノ。



大将軍への道なら、実力養成が全て、
大将軍の道ならば、戦の勝利が全て。

「同じ壁」ても、目的の相違が
「違う壁」になり得てしまうモノ。




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