しましましっぽ

読んだ本の簡単な粗筋と感想のブログです。

「悼む人」  天童荒太 

2013年05月16日 | 読書
「悼む人」  天童荒太         文藝春秋

坂築静人は、医療機器メーカーに勤めていたが、医師である親友の死などがきっかけで死んだ人を悼むことを始める。
始めは道端に置かれた慰霊の花を見つけ、亡くなった人が気になった。
自分の知らないところで、たくさんの人が死んで、誰からも忘れ去られていると思うといたたまれなくなる。
静人はその場所で、膝を付き、悼むことを始める。
悼むのは、その人が誰に愛され、誰を愛し、どんなことで人に感謝されていたか。
そのことを、近くに居る人に聞いて悼む。
冥福を祈るのではなく、ただ悼む。
そして、新聞などで死んだ人の記事を読むとそこに行く。
静人は、旅をしながら、人が死んだ場所を訪ね歩く。
1月2万円、寝袋を抱え、ほとんで野宿の生活。
静人の母巡子は癌を患い、余命3か月と言われていた。






色々と考えさせられる物語ではある。
1人の生きた証。
ただ静人は、覚えているために、その人が死んだ場所を訪ねる。
けれど、死んで忘れ去られる人ばかりではないだろう。
その人の側には、静人以上に、常に忘れない人がいるはず。
すべての死者を悼むのは不可能と本人も言っている。
それならば静人は、忘れられている人を優先して悼めばいいのに。
自分以外に、覚えている人がいて嬉しく思っている遺族もいたが。
何だか難しい。

世の中は生きて居る人のもの。
死んだ人を忘れることも必要だと思うのだが。
死者との対話が実現することは、ちょっと違和感。
二重人格だったかも知れないと、解釈もあるが。

悼む人が、他に気を取られたらもう悼めない、という感じも少々違和感。
その場で悼む必要はなんだろう。
話しを聞けるからなのだろうか。
事実を知り、しかし知らなくても悼む。
情報がなかったりたどり着けないと冥福を祈る。
冥福は祈らないのではなかったのか。
朔也の生き方に共感するのも、違和感。

静人の家族の方の物語が、心に残る。
巡子の生き方が、潔い。

記者の蒔野に静人のことを問われた時の返答も。
「静人は不審者に見られる。人によっては不快に感じる場合もある。
それは、その人と静人の問題で、他の誰かが責任をとれることではない。
肝心なのは、静人があなたにどう映ったかということではないか。
人に何を残すかに、存在がある。
人に何を残すか何を得たか何が残ったかが大切」と。



倖世の口をかり、朔也が語る静人
《彼は人を悼んでいる・・・・・生きていたものが死んだとたん数にされ、霊にされ・・・・
近しい者以外、どんな人物が生きていたのかを忘れていくのに・・・・
この男は、死んだ者の生きていた時間に、新たな価値を与える。
その人物がこの世に存在していたことを、ささやかに讃える》
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