最近、碁をはじめてみた。
前回(→こちら)も言ったが、まずは入門書を読んだところで、
「なるほど、碁とはSFであったか」
と、独自流に解釈して意味の分からないまま実戦譜などを盤にパチパチ並べている。とりあえずの目標は銀河帝国司令官の10級くらいである。
さて、碁や将棋、チェスなど盤上ゲームではその勉強法というのがだいたい共通している。
柱は3本で、「定跡や手筋を覚える」「詰将棋(詰碁、チェス・プロブレム)を解く」「とにかく実戦」この三つ。比重や量は人それぞれだが、これらをひとつでもまじめにやれば、たいていの人は中級者、まあアマチュアの初段前後にはなれるであろう。
私が今取り組んでいるのが、とにかく実戦譜を碁盤に並べること、これだけ。
というと、おいおい詰碁や実戦はやらないのかとっこまれそうであるが、それはまた後で。とりあえず、今は本にあるプロの対局をひたすら並べるだけ。これで実力アップを図ろうという算段である。
というのは、私の将棋上達法からきている。
私の腕は、将棋倶楽部24で初段という典型的な中級者(もう10年くらい指してないので、今はもっと弱いと思うが)。で、そこまで行く勉強法というのが、
「ともかくも、プロの棋譜を並べまくる」
ということだったからである。
といっても、別に将棋を強くなろうと思ってやっていたわけではない。単に棋譜並べがおもしろかったから、やっていただけだ。趣味といってもいい。
プロの棋譜には、一種独特の美しさがある。これは将棋を知らない人にはピンとこないところもあるだろうが、そこには様々なものが内包されている。
何百年といった時の流れに洗練されて残る手筋や、それに堪えて今なお進化する定跡の数々。碁やチェスもそうだが、いわばそこには「歴史のエッセンス」が詰まっている。
そんな人類の知の遺産の中に、棋士たちの深い読みや新しい発見、はたまた哲学や勝負魂などがミックスされ、さらにはそこに人間くさいポカやうっかりなどの不協和音などがちりばめられ、わけのわからないことになってくる。
それがまるで、よくできた楽曲のような、はたまた時にはコミカルでドタバタの人間喜劇のような、そんな一幕の歌劇でも見ているような気持ちにさせられるのだ。
そんな大げさなといわれそうだが、将棋や碁をやる方は、きっと大きくうなずいてくれることだろう。序盤の画期的新手や、終盤での奇跡的な詰み筋や、信じられないような妙手を見せられたときなど、本当にベートーベンの『運命』みたいに、ジャジャジャジャーン!という大音が聞こえるような気になるのだ。
その証拠に、ジェイムズ・ジョイスの日本語訳などで有名な翻訳家の柳瀬尚紀氏は、羽生善治名人と森下卓八段の名人戦第一局を鑑賞して、
「バッハの曲を聴いた心地がした」
とコメントしておられた。
あの一局は、最終盤で丸勝ちの将棋を、森下八段が一手ばったりの大ポカで失い、名人戦史上に残る大逆転と評されたところから、
「バッハっちゅうよりは、かしまし娘の音楽漫才みたいやろ」
と私は感じたものであったが、これには将棋ファンである官能作家団鬼六氏も羽生名人(当時)との対談で、
「僕はバッハというより、チャンチキオケサを感じちゃったんですけど」
とズバリ言い放ったが、これには名人も
「あれ、チャンチキオケサの方が当たってるかもしれませんよ(笑)」
と答えておられた。
そらまあ、バッハはかっこつけすぎですわな。と、そこはいいたくはなるにしろ、本来は記号の羅列のはずの棋譜から音楽的なものを感じ取れるのは、将棋ファンなら感覚的にわかるところなのだ。
強い人の棋譜にはそういう技術の修練と人間味のようなものが合致して、なんともいえない芸術性と「おかしみ」のようなものがにじみでているのだ。それを感じられるのが楽しい。
いわば、小説や戯曲を読むような感覚に近いというか。一昔前はよく
「囲碁や将棋の棋士は理系」
なんていわれたものだが、そういう意味では私は完全に文系のファンであるといえるかもしれない。
そうやって、特に勉強する意図もなくパチパチ並べていただけだが、えらいもので、そうやっているうちに、なんとなく自分の将棋にも影響が出てくるようになった。
そらそうだ、スポーツでいえば解説付きでプロの試合を見て、そのビデオを見ながら自分もフォームをまねてみるようなものだ。そのうち何となく「コツ」みたいなものがわかってくるようになる。
具体的には、「厚み」とはなにかとか、四間飛車対穴熊で、どのタイミングで64歩とつくとか、銀冠で玉が17に行ってしのいでいるとか、不利になったときのねばり方や戦線の拡大の仕方などは、実際に自分より強い人の手を鑑賞しないとわからないことが多い。
そういう感覚が、あくまでフワッとであるがわかってくる。よく絵や書の審美眼を身につけるには、ひたすら「本物を見る」のがいいというが、それみたいなものであろうか。
幸い、将棋の場合は手で駒を並べることによって、「体で感じる」ことができる。いわば、絵や文章における「模写」をしているようなものだ。将棋の郷田真隆九段は
「いい手は指が覚えている」
という名言を吐いたが、それを少しは体感できるようなのだ。自然に「筋」のところに手が行くようになります。スポーツでいう「自動化」みたいなものか。
そうして、なにも考えずにタイトル戦などをパシパシ並べていて、あるとき24で指してみたら、初段になっていたというわけである。棋譜並べ、すごいなあ。
ここでのコツは、あくまで気楽にやること。よく棋譜を並べる際には、
「途中で手を止めて、次の一手をじっくりと考えてみる」
なんてアドバイスもあるが、私はおすすめしない。そんなしんどそうなことをやっていては、どこかでイヤになるからだ。
とにかく、ひたすらヒョイヒョイやる。それだけでOK。素人の、しかも私のようなナマケモノの勉強法のコツは、
「とにかくハードルを下げること」。
もちろん、熱心にやる方が上達が早いに決まっているが、残念なことに「気合い」は「上達」に比例してブーストをかけるが「挫折」のメーターもまた気合いに比例してグラフを描くようにできている。
習い事やお稽古事で大事なのは「うまくなること」よりも「やめないこと」である。
ダイエットでたとえればわかりやすいが、「絶対やせるぞ!」「1ヶ月で5キロ落とす!」なんて挑むと、やせるのも早いが、反動でリバウンドしやすいし、そうなったときの心の折れ方も大きいのは、誰しも体験したことがあるだろう。それくらい「気合い」というのは諸刃の剣なのだ。
だから、あくまでのんびりと。ゆるい棋譜並べだけでも、そう捨てたものではない。現にそうして、実戦を10年以上指してないにもかかわらず、ただ並べるだけで私は初段になったのだ。
こういった経験があるので、とりあえず猿のようにひたすら棋譜を並べている。気長にやれば、これとNHK杯観戦だけで、初段にはなれるはず。5年後が楽しみである。それまで続いていたらだけど。
(この話題、さらに次回【→コチラ】に続きます)