トーマス・ブルスィヒ『太陽通り ゾンネンアレー』を読む。
前回(→こちら)、同作者の『ピッチサイドの男』を紹介してたら、こっちのこと書くの忘れちゃったということで、今回は『太陽通り』について。
主人公は、東ベルリンのゾンネンアレー(太陽通り)に住む少年、ミヒャエル・クッピシュ。通称ミヒャ。
壁ごしに西ベルリンの子供たちとケンカするわ、禁止されてる西側の音楽をこっそり聴くわ、観光客の前で飢えた子供を演じ、西側の新聞に、
「東ドイツの悲惨な実態!」
一面に載っているのを見て、「こいつら、茶番を本気にしとるで!」と大笑いする。
ミヒャは学校の標語の「VORHUT(前衛部隊)」をこっそり、
「VORHAUT(陰茎の包皮)」
に書きかえて、罰として討論会でスピーチをさせられるが、それにベルリン1の美少女ミリアムも参加することを知ると、クラス中の男子が我にも懲罰をと、学校内で暴れ回る……。
共産主義政権下というと、なにやら息苦しげなイメージがあるが、どこの国のどんな街でも、少年というのはバカでボンクラなのは変わりないよう。
なんだか親しみもわくというもので「つかみ」はこれで完璧だ。
その脇を固める大人たちも、これがまた愉快でステキ。
隣人をすべてシュタージ(東ドイツの秘密警察)と思いこみ、日々被害妄想が爆発させなが、家庭電話すらない東ドイツの現状に、
「陳情書を書くぞ!」
が口癖の、ミヒャのお父さんクッピシュ氏。
息子をモスクワの大学に入れるべく、ミヒャエルではなく「ミーシャ」とロシア風に呼ぶほど、体制万歳な姿勢。
どっこい、たまたま拾った西側住民のパスポートを使って亡命すべく、写真に合わせての老けメイクに血道を上げる、ミヒャのママ。
愛すべきは、西ベルリンに住む、ハインツ叔父さん。
叔父さんは、いつも国境警備兵の目と、強制収容所送りの恐怖に耐えながら、クッピシュ一家のために、西側の物資を「密輸」で運んでくる。
だが決死の覚悟で運ばれてくるそれは、チョコレートや歯みがきなど、禁止などされていないシロモノばかり。
だが、あまりの必死な叔父さんの「善意」と「冒険」の前には、
「それ、近所の店で売ってる……」
とは、今さらだれもつっこめない……。
そう、これは旧東ドイツ出身者だけが、真にリアリティーを持って書ける共産主義喜劇であり、作者自身の言葉を借りるなら、掟破りの「壁コメディー」なのだ。
政治体制をあつかった物語といえば、一見風刺とか、問題提起といった堅苦しいイメージを持つ方もいるかも知れない。
が、この『太陽通り』は、たしかに東ドイツという国の矛盾点や、瑕疵を皮肉ってはいるにしても、それはどこかカラッとしている。
この手の作品にありがちな、シニカルな視点よりも、むしろどこか愛のようなものが感じられる。そのエピソードのひとつひとつが、良質の小話みたい。
でもそれは決して小説的な嘘ではなくて、実際に東ドイツで生きてきた作者ならではの、不思議なリアリティーというのがある。
ボルヘスやガルシア=マルケスなど、ラテンアメリカの文学作品を評するのに、その不可思議で幻想的な味わいを
「マジックリアリズム」
と呼ぶことがあるが、この『太陽通り』で書かれる東ベルリンのできごとも、まさにそういった雰囲気。
当人たちは大マジメで、また当地では生活に根ざした、ごく普通の事柄なのに、他人から見ると
「んなアホな!」
つっこみたくなるような事象。
それが『太陽通り』の中には散りばめられていて、そのひとつひとつが抱腹絶倒。
南米作家と同じく、あまりにも変なエピソードの数々に
「それ、絶対作ってるやろ!」
ゲラゲラ笑っていると、
「いや、ウチらでは、これがふつうなんだよ!」
言い返してくるのも同じ。
そのズレが最高にユーモラスなのだ。
風刺劇の側面バリバリの小説なのに、こんなに楽しくていいのかしらんと首をひねりたくなる『太陽通り』。
伸井太一氏のドイツカルチャー紹介本『ニセドイツ』を併せて読むと、よりリアリティーを感じられ楽しめるると思います。超オススメ。