シャロン教授の東ドイツ文学と『ピッチサイドの男』について語りたい

2013年05月11日 | 

 『太陽通りゾンネンアレー』を読む。

 著者のトーマスブルスィヒは、旧東ドイツの作家。

 ドイツ文学というと、それだけで地味でマイナーなイメージで、これがさらに東ドイツとなると、ますますなじみがないよなー。

 となるところだが、なにげに手に取った戯曲『ピッチサイドの男』が、えらいことおもしろかったんで、彼の代表作である『太陽通り』も読んでみることにしたのである。

 先に『ピッチサイドの男』の説明をしておくと、戯曲といっても、これが一人芝居

 それも、主人公が動きもなく開幕から終幕まで、ずーっと一人で息継ぎもなくしゃべりっぱなし。

 なので、お芝居というよりも、モノローグ小説としても読める。

 旧東ドイツ時代に、ブイブイいわしていたサッカーチーム監督が、壁崩壊後は工場の夜勤で働きながら、無名チームの指揮を執っている。

 その監督が、舞台で吠えるわけなのだ。

 あの栄光の時代とくらべて、今のオレはなんだ!

 東西ドイツの統合は、そもそも統一という名の「西側の併合」だといわれているが、その現代ドイツの社会変革のうねりに直撃された「オッシー」(東側住民に対する蔑称)が、もうひたすらにボヤいてボヤいて、ボヤきまくる。

 サッカーしか能がない、ゴリゴリの保守主義者(だけど「左翼」になるのかな)の

 「あのころは良かった」

 からはじまって、西側に対する怒り、ひがみねたみそねみ、チームの消失失業の嘆き。

 さらには外国人や、その他モロモロの気にくわない連中への差別意識など、もうグチをこぼす、こぼす。

 あげくには、自分の弟子が軍務中に殺人事件など起こしたりなんかして、もう監督やってられません。

 町田町蔵さんの曲のごとく、「ほな、どないせえちゅうねん!」と。

 というと、なんだか暗くて救いがなさそうであるが、これがなにか妙にユーモラスというか、監督の語り口があまりにも絶妙なもんで、ついつい笑ってしまう。

 あつかっているのは重い政治的テーマなのだが、同時にこれは一級品のコメディーでもあるからだ。

 「おもろうて、やがてかなしき」

 といった、見事なボヤき漫談に仕上がっている。とにかくもう全編、監督絶好調。

 歴史のうねりに翻弄された、東ドイツの人々のかかえる問題や鬱屈を、たくみな「笑い」でコーティング。

 ともすれば「怒り」や「告発」といった単調な「社会派」になりそうなところを、一級の娯楽作に仕上げているあたりに、作者の並々ならぬ力量を感じ取れる。

 ドイツ文学といえばよく、

 

 「笑いの要素が少ない」

 

 といわれるが、トーマス・ブルスィヒはそこに、

 「そんなことないよ!」

 反旗の一石を投じたと言えよう。

 古き良き(?)祖国への愛と、郷愁と自虐が、絶妙にブレンドされた『ピッチサイドの男』。

 ぜひ一読して、「ドイツ喜劇も、全然おもしろいやん」と開眼していただきたいもの。


 ……て、『太陽通り』のこと書くスペースなくなっちゃったよ。次回(→こちら)に回します。

 

 

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