山本茂『白球オデッセイ』で読む、佐藤俵太郎選手と日本テニス黄金期 

2017年09月21日 | テニス
 山本茂『白球オデッセイ』を読む。

 日本テニスの黄金時代とはいつなのか。その問いには、いくつかの答えがある。

 古くは1975年、沢松和子が日系アメリカ人アン清村と組んで、ウィンブルドンのダブルスで優勝した。

 伊達公子がウィンブルドン準決勝で女王シュテフィ・グラフと戦い、杉山愛がダブルスでグランドスラム三冠を制した。このふたりでは、歴史に残る激戦となったフェドカップのドイツ戦もあった。

 男子では、松岡修造がウィンブルドンでベスト8に進出し、芝の絨毯の上でほえたこともあった。錦織圭のいる「今」こそ、まさに黄金期との声もあろう。

 そういった戦績の、そのどれも素晴らしいのは間違いないが、実を言うと日本テニスの本当の黄金期はもっと前にあるというと驚かれる人もいるのではないか。

 それは時代をさかのぼってさかのぼって、そこからさらにさかのぼって、なんと一世紀前の大正九年にまでたどり着くこととなるのだから、またずいぶんと過去の話だが、ここでの日本人選手の活躍がすごいのだ。

 この年、清水善造がウィンブルドンで、チャレンジラウンドの決勝(前年度優勝者への挑戦権を決める試合で、今の準決勝)まで勝ち上がった。

 清水は国別対抗戦であるデビスカップでもチームを牽引し、こちらもチャレンジラウンド決勝まで進出する。これに刺激を受けて、日本テニス界には数々の名プレーヤーが誕生する。

 熊谷一弥(アントワープ五輪、単複銀メダル)

 原田武一(パリ五輪ベスト8、世界ランキング7位)

 佐藤次郎(全豪、全仏、ウィンブルドン、ベスト4)

 目もくらむような、すごい戦績を残している選手が目白押しで、他にも太田芳郎のように海外に本拠地を置き、デ杯で活躍した選手もいる。「ミッキー」こと三木龍喜など、イギリスのドロシー・ラウンドと組んで、ウィンブルドンの混合ダブルス優勝も果たしているのだ。

 この『白球オデッセイ』は、そんな昭和初期にあった輝くような日本テニス黄金期に、プレーヤーとして大きな実績を残した佐藤俵太郎の評伝だ。

 俵太郎は全日本選手権こそ取れなかったものの、海外のトーナメントでは、昭和5年のデュッセルドルフのドイツ国際選手権で、「ホップマン・カップ」という大会に名を残すオーストラリアの名選手ハリー・ホップマンをやぶって優勝。ダブルスも安倍民雄と組んで、やはりホップマンのペアをやぶって単複二冠。

 続くジュネーヴの大会でも単複優勝。昭和6年では南仏のカンヌ、サン・ラファエル、ジュアン・レ・パン、ジェノヴァで優勝。ジュアン・レ・パン決勝は、同胞である佐藤次郎との日本人対決だった。

 そして、6月にローラン・ギャロスで行われた全仏選手権では見事ベスト8進出と、すばらしい成績を残している。

 そんな俵太郎の経歴を語る上で、もっとも重要なのがデビスカップであろう。

 今でこそ、デ杯はグランドスラム大会などとくらべると、マイナーな存在に堕している印象だが、当時は今では想像もできないほどのステータスのある大会だった。

 俵太郎は昭和5年、デ杯選手に選ばれると、欧州ゾーンに参加。参加31ヶ国という大会で日本チームは、ハンガリー、インド、スペイン、チェコを破って決勝に進出するのだ。

 今でこそ錦織圭がいるが、それ以前では考えられない快進撃である。

 当時のテニス界は、ジャン・ボロトラ、ジャック・ブルニョン、アンリ・コシェ、ルネ・ラコステら「四銃士」を擁したフランスは別格として、強豪国といえばアメリカ、オーストラリア、そして日本。

 俵太郎自身がいうように、あきらかに第一次大戦の爪痕が欧州に色濃く残っていたことがわかるが、それをさっ引いたとしても見事なものではないか。



 (続く→こちら



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