前回(→こちら)の続き。
1997年に行われた、第55期名人戦。
その開幕局で、谷川浩司竜王と羽生善治名人が、続けてとんでもない手を指し、観戦者たちは騒然となった。
クライマックスのこの場面。
先手玉は△67飛成と金を取られるとおしまいだが、まだ詰まないので「一手スキ」が続けば勝ちが確定。
そこで▲41銀と打った。
これがどう見ても「詰めろ」なんだけど、というか、そうじゃなかったら負けだから、先手が選ぶはずがない。
けど、じゃあ具体的な詰み手順はといえば、これが存外に見えないのだ。
このときの様子を、当時『将棋世界』に連載を持っていた先崎学六段が描いている。
まだ若手棋士だった先崎は連盟(プロはなぜか「将棋会館」のことを「連盟」と呼ぶことが多い)で研究しており、現地でも「先手勝ち」といった空気になっていたそうな。
が、ここでも同じセリフが出る。
「で、これって詰むの?」
これには先チャンをはじめ、まわりにいた棋士や、棋力に自信のある関係者などもドキッとする。やはり、
「どう見ても詰みだけど、具体的な順はまだ見えてないから」。
そこで、じゃあいっちょ詰ましてみんべ、とあれこれいじくりまわすが、やはりなかなか詰まない。
あれ? 沈みこむ一同。
手を言うだけなら山ほどある。
▲32銀成、△同玉、▲41角、△31玉、▲23桂不成の筋からはじまって、▲32銀成、△同玉に、▲44桂の王手とか。
△32同玉に、▲23桂成と取って、△同玉▲41馬と飛びこむとか。
▲41馬で、▲15桂とか、▲24飛と捨てるとか、どうやってもいけそうだが、最後は後手がしのいでいる。
まさか……これ本当に詰まないの?
タブーに触れるような気持になっていたところ、そこにやってきたのが、やはりこのころ、まだバリバリの若手棋士だった郷田真隆六段。
郷田は大盤解説の仕事をしていたのだが、「先手勝ち」のはずが、なかなか詰み手順が見つからず困惑。
休憩時間を利用して、一緒に検討すべく控室にやってきたのだ。
▲41銀と、△63飛。
一体、どういうことだ?
さらにそこに飛びこんできたのが、なんと佐藤康光八段。
あれ? キミは今日、連盟にいなかったはずだけどと問うならば、佐藤は家のテレビで観ていて、
「絶対におかしい。詰むに決まってます」。
やはり疑問を抱いて、なんとわざわざ車に乗って連盟までやってきたのだ。もう、とんだ大騒動である。
ここでのポイントは、▲41銀と打った局面で、対局者が谷川と羽生でなかったら、こんな騒ぎにはならなかったろうこと。
凡百の棋士なら、
「▲41銀で勝ちだよね」
「うん。あれ? でもこれ詰むの?」
「……あー、いろいろやって、詰まないや。じゃあ後手勝ちか。ラッキーだったね」
「読めてなかったか。でも、これは詰みと思うよね」
「うん、おどろいたねえ」
くらいの、詰みありでもなしでも、
「ちょっとおもしろい局面」
くらいの話で終わっていたはずなのだ。専門誌で「今月の珍プレー」みたいなコーナーで取り上げられる程度の。
だが、ここに「谷川浩司」「羽生善治」という両の大ブランドがかかわってくると、ことはそう簡単ではない。
「ラッキー」「読めてなかった」
こんなことが、2人の将棋で起こるわけがない。
ましてや、羽生は「詰みあり」と判断したからこそ、△63飛と馬を取ったのだ。
「一目、どうやっても詰み」
↓
「でも、あれこれ試すけど、なぜか詰まない」
↓
「あれ? じゃあ、先手谷川のウッカリ?」
↓
「この不詰を読んで勝つなら、羽生バケモノやん」
↓
「羽生が【詰み】をさける手を指す」
↓
「え? じゃあやっぱ詰んでたってこと? でも、だからその手順は?」
こういう流れで、こうなるともうなにが正しくて、なにがまちがっているのかサッパリだ。
「やらかし」てる犯人はだれ?
先チャンたちが、ムキになるのも理由があった。
もし、ここで先手に詰みがあるとなると、それすなわち
「自分たちは谷川と羽生に読み負けていた」
ということになる。
勝負師というのは、単に対局だけで戦っているのではない。
ふだんの将棋に関する言動ひとつひとつで、「こいつは強い」「たいしたことない」と格付けし合っている。
そういう「見えない番付」が、実は勝負に大きな影響を及ぼすのだ。
ここで谷川が
「先崎、郷田、佐藤康光の思いつかない絶妙手」
を用意していて、
「羽生だけが、それに気づいていた」
ということになるなら、それを発見できないことは、自分たちの「格を落としてしまう」ことになる。
だから、3人とも必死なのだ。
▲41銀はウッカリか絶妙手か。
△63飛もまたウッカリか、それとも自陣の危機を察知した当然の手か。
間違っているのは谷川か、羽生か、それとも先崎、郷田、佐藤康光か。
結論を言うと、ポカをしたのは谷川浩司だった。
やはり▲41銀は「一手スキ」になってなかった。
あの場面で、△67飛成と取って、後手勝ちだったのだ。先手は別の順を選ぶべきだった。
一方、羽生もまた見えてなかった。
後手玉はしのげていたが、そこに思いがいたらず、観念して馬を取った。
だが、それは一瞬おとずれた大チャンスを逃した、まさかのボーンヘッドだった。
なぜこんな「Wウッカリ」が出てしまったのかといえば、まず谷川浩司の側は理解できなくもない。
だれが見たって▲41銀は決め手級であり、これが詰めろでないなんて、今でも信じられない。
もちろん、読み抜けがあったのは事実で言い訳できないが、局面を見ればイエス・キリストでもいうだろう。
「これが詰まないと、確信していたものだけが石を投げよ」
一方、羽生の方も同じで▲41銀で詰まないとは思わないだろうし、さらにはここに「谷川ブランド」というものも存在する。
「光速の寄せ」谷川浩司が、
「どう見ても決め手と言う手をビシリと指してきた」
なら、そら信用してしまうというのは、先日の対高橋道雄戦(→こちら)と同じカラクリ。
現に、先崎、郷田、佐藤康光といった面々ですら「まさか」と思ったのだから、羽生がその罠にハマってしまうことも充分ありえるのだ。
正解は「どっちもウッカリした」。
翻弄された他の棋士たちからすると、ポカーンであろう。
人騒がせな枯れ尾花というか、大山鳴動して鼠一匹とは、まさにこのことではないか。
とんだドタバタだが、トップ棋士が山ほどそろってこんな、失礼ながら「喜劇的」なことも起こるのかと、たいそう印象深い一局だったのだ。
ちなみに、シリーズは4勝2敗で谷川が制して「十七世名人」に。
そう考えると、十七世、十八世、十九世と永世名人シリーズにはどれも「信じられないポカ」が、かかわってることになる。
このレベルの棋士の、それも若くて充実期にある将棋ですら、とんでもないミスが出るものなのだ。
そりゃ「逆転のゲーム」と呼ばれるはずであるなあ。
(絶妙手編に続く→こちら)
(終局後に起こった佐藤康光の悲劇は→こちら)
(「谷川十七世名人」誕生の一局は→こちら)