人の指す将棋のおもしろさは「悪手」や「フルえ」にこそある。
前回は丸山忠久が名人戦で見せた、まさかのトン死を紹介したが(→こちら)、今回もまた名人戦でのお話。
世に「将棋界の七不思議」というものがあり、今なら、
「渡辺明が、名人戦に出たことがないこと」
「どうして豊島将之ほどの実力者が、長く無冠だったのか」
などがあがると思うが、少し前なら
「高橋道雄や南芳一など、【花の55年組】が、勢いを失ってしまったのはなぜか」
「棋聖3期の屋敷伸之が、なぜC級1組に14年も停滞したのか」
と並んで、
「森下卓がいまだ、タイトル保持者になれていないのはなぜか」
が入ってくるのは間違いない。
森下卓といえば、今では増田康宏六段の師匠として有名だが、若いころはデビュー時から評価が高く、羽生世代の棋士と並んで「名人候補」のひとりであった。
ところが森下は、その棋力と研究熱心さにもかかわらず、妙に勝負弱いところがあった。
新人王戦や早指し選手権という大会で、ことごとく決勝で敗れ、
「準優勝男」
なる、ありがたくもないニックネーム(本人によると準優勝6回、挑決敗退3回、順位戦の次点2回)を頂戴したりしたこともあったのだ。
そんな森下が、地力を発揮し出したのが1990年。
新人王戦決勝で大野八一雄五段に勝って初優勝を飾ると、天王戦では阿部隆五段を破って、全棋士参加棋戦にも優勝(その将棋は→こちら)。
また大型棋戦である全日本プロトーナメント(今の朝日杯)でも、A級棋士の桐山清澄九段に勝ち優勝。
将棋の内容的にも圧倒していて、「森下強し」を思わせた。まさに、殻を破った時期だったのだ。
一方の順位戦では、要所でライバル羽生善治に手痛い目に合ったりもしたが、それでも5年かかったC2以外は、そこそこ順調に昇級していく。
そしてついにたどり着いたA級リーグで、初参加の森下は7勝2敗の好成績を残し、プレーオフでも中原誠永世十段を破って名人挑戦権を獲得。
このときは
「羽生と中原の名人戦を見たい」
という世論の声も、なんのそので中原を圧倒し、これまた「森下強し」を印象づけた。
そうしてむかえた名人戦。待ち受けるのは因縁の羽生善治名人(竜王・棋聖・王位・王座・棋王)。
順位戦や全日プロ決勝でも痛い目にあわされた相手だが、それだけに期するものがあったろう。
充実の森下は、その第1局から全開の指しまわしを見せる。
当時の両者らしい相矢倉から、羽生の攻めを森下はらしい、いかにも重厚な受けで迎え撃つ。
中盤に放たれた2枚の角が躍動し、あっという間に森下勝勢。
このままいけば、開幕戦を会心譜、それも後手番での勝利で飾れるという、これ以上ない展開になるはずだった。
クライマックスは、この場面だった。
先手玉は受けのない形で、後手はまだ安全なため、羽生もあきらめていた。
一方、森下は局面的には元気百倍だ。
先手の唯一の望みは上部脱出だから、△95金とでも打って、それを防いでおけばなんの問題もなく、先手は投了していたことだろう。
ところがここで森下は、信じられないような、すっぽ抜けをやらかしてしまう。
上部脱出を防ぐ意思は同じだが、△83桂と打ったのが決め手に見えて、超がつくウルトラスーパー大悪手だった。
すっと▲75歩と突いて、悪夢のような大逆転。
なんとこの一手で、先手玉にまったく寄りがなくなってしまったのだから、将棋の終盤戦の怖ろしさには、あきれるばかりだ。
△83桂でなく△95金なら、△67飛成、▲同玉、△68角成の詰めろ。
そこで▲75歩と空気穴をあけても、△85金と取って、頭上の重しはどけられない。
どっこい、△83桂、▲75歩だと、△67飛成から△68角成は▲76玉で、まったく上が抜けている。
まさに勝利への脱出。
森下は△95金に、▲35金と角を取られてダメと読んだそうだが、それには△88飛成の1手詰みなのだ!
一瞬の転落劇に森下も唖然となったろうが、投げるに投げられず△54金と指し続けるも、▲35金から▲68金と、要の攻め駒を次々スイープされ完切れ。
この将棋を落とすようでは波には乗れず、森下は1勝4敗のスコアで完敗した。
将棋の充実度を見れば「森下名人」も充分すぎるほどありえる内容だったのに、あまりにも大きすぎた「一手ばったり」だった。
にしてもだ、羽生相手に最終盤まで100点満点、いやそれ以上の150点の将棋を指して、たった一手の悪手でおしまいなんて、あんまりといえばあんまりではないか……。
結局、森下は6度タイトル戦に登場したが、一度も勝つことはできなかった。
当時の森下の力を知っているものからすれば、信じられない結果であり、これに関しては「不思議なこともあるもんだ」と、首をひねることしかできないのだった。
(屋敷伸之編に続く→こちら)
(羽生と森下の血涙の一戦は→こちら)