前回(→こちら)に続いて、将棋の絶妙手の話。
谷川浩司九段の歴史的名手の数々に続いて、今回は森内俊之九段に登場していただこう。
舞台は1989年、第7回全日本プロトーナメント(現在の朝日杯)決勝3番勝負。
谷川浩司名人と、森内俊之四段の対決である。
当時の森内は、まだデビュー2年目の18歳で、四段での全棋士参加棋戦の決勝進出はそれだけでも大快挙。
今でいえば、藤井聡太七段クラスの大アピールといえるだろう。
だが、今思うとおそろしいことに、この森内の快進撃も、当時はさほどすごいこととは思わなかった。
というのも、羽生善治のデビューからこの方、
「なんか、若手ですごいのがどんどん出て来るらしいぞ」
という噂はすでにファンの間にもとどろいており、もうプロになっていた羽生や佐藤康光、村山聖に先崎学。
といった面々の勝ちっぷりを見ていると、そのライバルである森内が少々勝ち星を重ねたところで、
「やろうな」
と受け入れるのは、自然なことだったのだ。ふつうやん、と。
実際、森内はすでに新人王戦と早指し新鋭戦で優勝しており、羽生はこの年NHK杯優勝に竜王獲得。
村山はC級2組を1期抜けし、佐藤康光は2年後には王位挑戦。
先崎もNHK杯を獲得し、その間に郷田真隆が四段になってすぐ、棋聖戦などで挑戦者になりまくり王位を獲得。
さらにはまだ奨励会に、屋敷伸之、丸山忠久、藤井猛、深浦康市、三浦弘行、久保利明。
といった面々がスタンバって力をためていたのだから、その噂は事実、いやそれ以上のものだったのだ。
そんなすごい人たちが出ていた時代なのだから、
「そら森内やったら、それくらいは」
と感じてしまうのもむべなるかな。
いや、その感想おかしいよ! すごいじゃん! もっと騒げよ! 森内フィーバーは?
今ならそう思うけど、振り返っても、なにやら感覚がおかしくなるような、あのころの新人の規格外感だった。
そんな不感症を、ますます後押しするように、森内は決勝でも名人相手にすばらしい戦いを見せる。
1勝1敗でむかえた最終局は、森内先手で角換わり腰掛銀に。
角換わりの定型通り先攻した森内は、着実な攻めと、中盤は得意とする腰の重い受けで谷川を押さえこみ、リードを保ったまま最終盤をむかえた。
後手玉は薄く、先手からは▲53とという、成駒を寄せていくだけの確実な手があるから、後手は死に物狂いの特攻を見せることになる。
先手としては、それを受け切れれば勝ちだが、もちろん、そんな簡単にやられてしまう谷川名人ではない。
△67銀と、中空にたたきこんだのが、いかにも谷川らしい強烈な勝負手。
▲同金右は△59竜。
▲同金左は△87の地点が空くから、△69角と強引に打つ筋で先手玉は危ない。
ピンチのようだが、森内はいきなり投げこまれた手榴弾に動じることなく、冷静に事を進めていく。
じっと▲53と、と取って、△86飛に▲87歩と受ける。
足が止まったらおしまいの後手は、△78銀成と取って、▲同玉に△45角と必死の猛攻。
▲56香の合駒に、△79金と捨てて、▲同玉に、ついに△87飛成と先手陣を突破することに成功したのだ。
そうして、クライマックスをむかえたのが、この場面。
谷川が懸命の食いつきで、なんとか竜を敵玉付近まで突入させたが、△87飛成に先手も▲78金としかりつけて、これでギリギリ受かっているように見える。
竜を引き上げるようでは話にならないが、△45の角や△29の竜は森内の駒の壁に阻まれ、働きを封じられている。
まさにこれぞ、森内流「鋼鉄の受け」だ。
デビュー2年目の新人が、名人の、それも「光速の寄せ」谷川浩司の猛攻撃を、完全に受け切ってしまった!
ところがここで、名人もまたすごい手を用意していたのだから、将棋を最後まで勝ち切るというのは大変である。
終わったと思ったところに、もうひとつ山があった。
そう、谷川浩司必殺の「光速の剣」は二枚刃だったのだ。
(続く→こちら)