田中啓文『あんだら先生と浪花少女探偵団』を読む。
ここは大阪の下町・ジャンジャラ横丁。
ソースとうどんの匂い漂うこの町で、東京から引っ越してきためぐと、地元のおてんば娘・千夏が結成したのは「ジャンジャラ探偵団」。
酒くさい髭もじゃ校長・あんだら先生の助けを借りつつ、ナニワの難事件・怪事件に今日も元気に二人で挑む!
酒くさい髭もじゃ校長・あんだら先生の助けを借りつつ、ナニワの難事件・怪事件に今日も元気に二人で挑む!
田中啓文さんは大好きな作家で、『蹴りたい田中』『銀河帝国の弘法も筆の誤り』などなど驚天動地のバカ(ほめ言葉です)SFでおなじみ。
これで最初に頭をガツンとやられてからは、『UMAハンター馬子』に伝奇学園シリーズと、当たるを幸い読みまくった。
この『あんだら先生』は『笑酔亭梅寿謎解噺』シリーズと同じく、大阪を舞台にしたジュブナイル小説。
本人もおっしゃっているように、『じゃりん子チエ』のトリビュート小説であり、愛すべきキャラクターたちがキュートすぎて、もういつまででも読んでいたくなる物語に仕上がっているのだ。
この小説が、こんなにも楽しい世界を描けているのは、やはり作者の田中さんが大阪出身だからであろう。
というと、そりゃそうだろ、舞台が新世界で、お好み焼きやうどんや阪神が出てきて大阪弁バリバリで、そんな「コテコテの大阪」なんだから。
そう納得されそうだが、私がいいたいのはちょっとニュアンスが違ってて、
「田中さんは大阪人だからこそ、《実は本当の大阪ではないかもしれない大阪》を作りだせたのだ」
ということ。
私は生まれも育ちも大阪という生粋の浪速っ子だが、この物語を読みながら、ずっと感じていたのが、
「これは、私が知っている場所と、ちょっとちがう。パラレルな世界の大阪ではないか」
読了後、あとがきを見ると、そこで田中さんがこう書いていた。
「これは、本当の大阪というよりも幻想の大阪です」
やっぱりそうだった。
これは大阪人が大阪を舞台にして書いた「コテコテの大阪」ではなく、地元民が、自分の土地をあえて一歩距離を置いて描いた「ここでないどこか」にある大阪なのだ。
この物語の中の大阪は、現実の大阪よりも少しばかり幸福で、キラキラしている。
これは別に、実際の大阪がダメなところだから装飾しているとかではなく、『ラ・ラ・ランド』のロサンゼルスや、『君の名は。』の東京や、森見登美彦氏による京都大学のようなもの。
その土地のことを知り尽くした人によって、その愛憎をふくんだスパイスに、ささやかにデコレートされた、
「ここではないけど、たしかにどこかにある、いやあって欲しい美しい街」
映画『この世界の片隅に』のオープニングで、
「この広島を、現実のそれというより、絵で描かれたこの広島こそを歩いてみたい!」
そう観た者だれもが願うような、あの甘美さのこと。
それを描けるのは、「本当の大阪人」である田中啓文さんだからこそ、ということだ。
それは関西の風土を知らない人が想像したり、逆に地元民が「演じて」ついおちいりがちな、テレビやお笑いであつかわれる「コテコテ」とは似て非なるもの。
ステレオタイプに見せかけて、実のところ
「ステレオタイプにおちいらせない意図をもって描いたステレオタイプ」
だからこそ、描写に力があるのだ。
そこを読み取れないと、
「ただのベタな大阪を描いただけの、閉鎖的自己の作品」
などといった、的外れな感想をいだいてしまうだろう。
ジャンジャラ横町とは、ディズニーランドやUSJのような、大阪をインターフェースにした「ワンダーランド」なのだから。
では、この物語の大阪と現実の、なにがちがうのかといえば、そこに「祝福」があるかだ。
かつて氷室冴子さんは『いもうと物語』という小説のあとがきで、こんなことを書いた。
「物語を書くという行為は、究極のところ、《祝福》することなんだと思います」
まさにこの『あんだら先生と浪花少女探偵団』こそが、現実の大阪に《祝福》をちりばめた物語。
作者にも読者にも、これでもかと愛されているからこそ、めぐは、千夏は、この本に出てくる登場人物は皆あんなにも輝き、躍動している。
同じ大阪人だからこそ、よりそう感じるのかもしれないが、これはささやかで、それでいて「物語る」ことのすばらしさを伝えてくれる、奇蹟のように美しい傑作なのだ。