「七冠王フィーバー」があったころ 羽生善治vs佐藤康光 1993年 第6期竜王戦 第5局

2020年09月20日 | 将棋・シリーズもの 中編 長編

 前回(→こちら)の続き。

 1994年末から1995年の初頭にかけて、日本列島は「七冠王フィーバーで、湧きに湧いていた。

 そこで、まずは「七冠王」までの道程を紹介しているわけだが(「七冠王」をかけた第44期王将戦に興味のある方はこちらまで飛ばしてください)、その主役である羽生善治はデビュー以来、各種棋戦で次々と優勝

 「対局数 勝率 勝数 連勝」の記録部門独占最優秀棋士賞受賞、竜王獲得など、スーパーエリート街道を驀進していた。

 その後、少しばかり挫折の時期があり、初タイトルの竜王を充実著しかった谷川浩司に奪われる。

 1勝4敗というスコアもさることながら、内容的にも圧敗

 

 「谷川が強すぎる」

 「羽生の棋界制覇はまだ先の話だ」

 

 というアピールをゆるしてしまったが、そのダメージもなんのそので、すぐに棋王南芳一から奪い無冠返上する。

 さらには福崎文吾から王座も奪って二冠に輝き、NHK杯全日プロでそれぞれ2回目の優勝。

 トップ選抜の日本シリーズも制するなど、相変わらずの安定ぶり。

 1992年の第5期竜王戦(→こちら)では、谷川浩司竜王にリベンジマッチを挑みフルセットの末奪取

 同時に、谷川を挑戦者にむかえた棋王戦(→こちらでも防衛で「往復ビンタ」を喰らわせる。

 ここがターニングポイントとなったようで、「谷川三冠」「羽生二冠」が「谷川二冠」「羽生三冠」になったインパクトが強烈だった。

 これで谷川に対して、苦手意識を植えつけたのか、続く棋聖戦でも勝ち四冠王に。

 なんと運命の王将戦まで、谷川は羽生にタイトル戦でシリーズ7連敗を喫するという、信じられない偏りになってしまう。

 

 「ナンバー2を叩け」

 

 という、テニスのロジャーフェデラーも実践した王者の必勝パターンを確立した羽生は、今度は同世代のライバル郷田真隆から、王位をストレートで奪い五冠王

 本人も認めるように、このあたりから周囲も

 

 「え? 七冠王あるの?」

 

 色めき立つが、翌年の第6期竜王戦で、佐藤康光に敗れて一歩後退。

 このときの佐藤は踏みこみも素晴らしく、とても強い将棋だったから、ここで少し取り上げてみたい。

 今でも憶えているのは第5局

 羽生と佐藤康光の初タイトル戦で、それぞれ先手番をしっかりキープして2勝2敗のタイ。

 この第5局も、そのころの2人らしいガッチリとした相矢倉になって、むかえたこの局面。

 

 

 

 まだ序盤で駒組の段階だが、実はすでに勝負所である。

 テレビの解説によると、この局面はかなり研究が進んでおり、ここで△55歩と仕掛ければ、後手が指せるという結論になっていたそう。

 このころ名人戦竜王戦は1日目と2日目両方とも、午後4時から6時まで、最後にダイジェストが放送されていた。

 2日目の6時で終わりとか、一番ええところ見られへんやんけ!

 不満タラタラだったが、まあ、そういう時代だったのである。

 でだ、1日目午後4時にテレビをつけると、画面に映ったのがこの図だった。

 △55歩の解説からはじまって、あれこれやっているのだが、だんだんと妙な空気になってきたのは、佐藤七段に、まったく次の手を指す気配がないから。

 将棋に長考はつきものである。ましてやそれが、持ち時間8時間の竜王戦なら。

 しかしだ、それにしても長い。

 次の手は、ほぼ△55歩で決まりなのである。

 それでも指さない。佐藤はひたすら盤上に没入している。

 解説はすべての変化を語ってしまった。雑談するにも限度がある。まさか「早く指して」とカンペを出すわけにもいかない。

 今なら、こういうときメールを読んだり、おやつを食べたりできるが、そういう文化もなかった。

 そもそも、手が進まないと「気まずい」のが、将棋中継の持つ最大の弱点だ。

 「長いなあ」とあきれること2時間、なんと佐藤康光はそのまま1手も指さず、封じ手に入ったのだ。

 羽生と佐藤康光のタイトル戦を楽しみにテレビをつけたら、なんたることか、そこから手がまったく動かなかった

 ちょっと待てーい!

 果たして翌日、封じ手によって示された手は「△55歩」だった。

 

 「それやったら、早く指せよ!」

 

 ……とは、もちろん言えないんだけど、そりゃあんまりやで康光センセ、とブツブツ言ってた私は、この後の展開を見て、その不明を恥じることになる。

 なんと、この△55歩以下、佐藤康光はそのままノンストップで攻めまくって、羽生にチャンスらしいチャンスをあたえないまま、押しつぶしてしまったのだ!

 これには、驚きのあまり言葉がなかった。

 え? もう勝っちゃったの? と、お口あんぐりである。

 あの空気を読まない大長考で、この男はすべてを読み切っていたのだ。

 われわれが、呑気にあくびをしている間に、羽生はとっくに鍋に入っていた。勝負は1日目の昼すぎ、すでに着いていたのだ。

 少なくとも、佐藤康光の頭の中では。

 すさまじい読みの力であり、まだ駒もぶつかってないのに

 「ここで仕留める」

 と決意を示した、その気迫集中力には怖気が走ったもの。

 若手時代の佐藤といえば「優等生」キャラだったが、そのイメージがはじけ飛んだのが、この将棋だった。

 この人は気が狂っている。優等生なんて、どこの国のパプアニューギニアや。もうムチャクチャに、カッコええやんかー!

 終盤も見事だった。

 

 

 

 ▲72と、とせまられ、次に▲62とと取られる形が飛車当たり。

 △31になってるのも気になるが、次の手が好手である。

 

 

 

 

 

 △71銀とするのが、カナ駒を1段目に引きずり降ろして威力を弱めるという、おぼえておきたい受けの手筋。

 ▲同と、しかないが、これでと金を使いにくくして△97角成が、敵陣にせまりながら自玉の逃げ道を開通させる、すこぶるつきに味のいい手。

 

 

 見事な将棋で羽生の先手番をブレークした(こういうとき「後手番ブレーク」という人がいるが、これはテニスサービスゲームをイメージしてる言い回しだから、先手番をキープ」「ブレーク」が正解)佐藤康光は第6局も制し初タイトルを獲得。

 大長考のド迫力といい、その腕力といい、こういうのを見ると、

 

 「羽生も強いけど周りもすごいから、七冠とか口で言っても、そう簡単ではないか……」

 

 という気にもさせられ、それがふつうの感想のように思われたが……。

 七冠熱は少し冷めたとはいえ、現実的に「四冠王」というのは棋界制覇といっていい内容。

 その勢いはおとろえることを知らず、今度はA級順位戦で勝ち星を重ね、プレーオフでまたも谷川を下して挑戦者に。

 「50歳名人」で話題になった米長邦雄から名人を奪い、すぐさま五冠復帰どころか、翌年の竜王戦で佐藤康光から竜王も奪い返し(羽生はこのように失冠後すぐ奪い返すケースが多い)、とうとう六冠

 一歩後退どころか、まさかの「七冠王」にリーチがかかった。

 もちろん、その間のタイトル戦はすべて防衛しているわけで、とんでもない勝ちっぷり。

 そうなると注目は、当然王将戦に集まるわけで、羽生はここでも期待に応え、強豪ひしめく王将リーグ5勝1敗でフィニッシュ。

 挑戦者決定プレーオフでも郷田を破って、なんと谷川王将の待つ七番勝負に上がってきてしまったのだ。

 少々かけ足だが、羽生のデビューから「七冠フィーバー」まで、当時の状況はこういう感じであった。

 ふつうに考えればありえない「七冠王」だが、この強さを見せられれば、もはや実現しても不思議ではない。

 しかも、相手にしているのは谷川浩司森下卓佐藤康光森内俊之郷田真隆村山聖といった、すごすぎる面々。

 さらには高橋道雄南芳一中村修塚田泰明島朗ら「花の55年組」などを加えれば、史上最強クラスといえる時代だ。

 ここをつるべ打ちしての結果なのだから、数字以上の偉業であり、その価値はまさにはかり知れない。

 単に強いだけでなく、島朗八段の

 

 「ここまできたら、一度は七冠王を見てみたい気もする」

 

 という発言のような、世論の後押しもありマスコミはかつてないほど将棋界に群がり、一般の関心まで高まるという大事件に発展していったのだ。
 

 (続く→こちら

 
 

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