前回の続き。
米長邦雄名人に羽生善治四冠(棋聖・王位・王座・棋王)が挑戦する第52期名人戦七番勝負は、開幕局で羽生が5筋位取り中飛車を選択。
今ではなんてことない話だし、それこそ藤井聡太五冠が名人戦で振り飛車を指したら、すんごい盛り上がると思うけど(見たいなあ)、当時は、
「名人戦で中飛車など失礼極まりない」
などという「常識」が存在したようで、ベテラン棋士などから批判されたりもしていた。
「常識とは18歳までに身に付けた偏見のコレクションである」
というアルベルト・アインシュタインの言葉に頭をガツンとやられた経験のある私には、ただただトホホに感じたこの「失礼」という声だが、羽生にとってはおそらく、勝つための自然な選択に過ぎなかった。
戦法に貴賤なんかない。その当たり前のことを、この名人戦にかぎらず、羽生は盤上で証明し続けていくことになる。
この中飛車採用を評して勝又清和七段も『最新戦法の話』という本で、
羽生は続く第3局で相掛かりに誘導し、引き飛車を採用します。相掛かりと言えばほとんど浮き飛車に構えていた時代のことです。
つまり羽生は、中飛車にせよ相掛かりにせよ、現在流行している形を10年も前に先取りしていたわけです。
「得意戦法は持たないほうがよい」
「よい戦法なら棋風にこだわらず使うべきだ」
という「羽生哲学」は徐々に浸透し、トップ棋士の戦法に対する考え方が変わってきます。
実を言うと、羽生というのは優等生キャラに見えて、若手時代はベテラン棋士や評論家からは、あまりいいあつかいを受けないことも多かった。
今思うとそれは、まさにこの「名人戦で中飛車」という旧来の「邪道」を、いつの間にか「ふつう」にしてしまいったこと。
まさにそれを「常識」や、人によっては「美学」から、「中飛車はよくない」と怒ったり批判したりする者が、若手棋士や子供時代の私のような「新しいファン」からすれば、
「古くさい考え」
にしか思えなくなるよう、結果的に上書きしてしまった。
つまりは、古き時代の価値観を持った人たちにとって羽生は、その意図するしないにかかわらず、自らの存在を否定する「革命家」であり、恐るべき「破壊者」であったのだ。
そう考えると、彼らが本能的に羽生を警戒し、拒否したのは、ある意味当然と言えるかもしれない。
少し前、将棋ソフトがプロ棋士を超えた超えないで盛り上がっていたとき、棋士やファンの中から、
「ソフトの手からは魂が感じられない」
「美学や哲学のない機械の手は、しょせん人を感動させることができない」
「たとえどんなに強くても、AIの将棋など認めない」
とかいう声もあったりしたけど、なんかシラけてしまうのは、上のセリフの主語を「ソフト」「AI」から「羽生」に代えれば、昔の「旧弊」な批判とまったく同じだからだ。
人は同じことをくり返す。
そもそも米長は『運を育てる』と言う本の中でも、一緒に研究会をやっていた森下卓八段など若手棋士のことを「先生」と呼んでいたエピソードを書いている。
後輩で格下でもある者たちにそう接するのは、別に先輩の冗談やノリではなく、本気であって、実際、ある棋士仲間から、
「トップ棋士であるあなたが、若造相手に『先生』などと呼ぶと、彼らがつけあがってしまう。権威というものを、どう考えているのか」
なんて苦言をいただいたほど。
これに対して米長は、
「将棋に真摯で結果も出し、技術的研究面でも秀でた者に将棋を教えていただくのだから、相手が若手でも《先生》なのである」
「私自身、そう呼ぶことになんの抵抗もないし、彼らは先生と呼ばれても謙虚さを失うこともないのだから、問題があるとは思えない」
といった内容のことを文庫本で2ページ近くにわたって力説しており、また伝説の「米長道場」で羽生ともしのぎを削った男が、
「名人であるオレ様に、若造が先手中飛車とはなんたる無礼!」
とか思わないでしょ、今さら。
てか、「先手中飛車は無礼」って、なかなかのパワーワードだよなあ。
また、もうひとつ興味深いのが、羽生はこの将棋を振り返る自戦記で、米長の5手目△34歩が、わずか3分の消費時間だったことに注目し、こう書いている。
米長先生は私の▲56歩を予想されていたのかもしれない。△34歩はかなり速い感じである。
いうまでもなく、△54歩や△85歩も一局。△34歩は私の振り飛車を誘って指すつもりだったのだろう。
このあたりの、駆け引きの妙もおもしろく、どうやらこの二人は、もう無礼がどうとか、そんなところで戦っていなかったらしい。
羽生が「時代を変えた」のも、米長が名人になったのも、まさにこういう「権威」に縛られることに危機感を持って行動したからに他ならないのだから。
なんて前置きが長くなったが、将棋の方は、ポイントとなったのが、この局面のよう。
「指す手がわからなかった」
と言う米長は△63飛と浮いて手を渡したが、これが敗着に。
ここでは△45歩と突っかける手が有力だった。
▲同銀なら、△同銀、▲同歩に△83銀と打って飛角両取り。
▲同歩なら△55銀と出て、▲同銀、△同角、▲46銀とはじき返されそうなところで、△64飛とぶつけるのがピッタリのカウンター。
以下、▲同飛、△同角で自陣にいた飛車と角がさばけて、これならいい勝負だった。
開幕局は羽生がうまく指して快勝するが、この将棋の米長はさほど力が入っていないようにも見え、羽生自身も感じたように「様子見」という一面もあったよう。
となると、第2局は大事ということになり、これが期待通りの大熱戦になり、
「今期の名人戦はここからが本番」
という空気はビンビンに感じたのであった。
(続く)