「幻の名手」というのが存在する。
将棋には実際に盤上だけでなく、その水面下の読みや、本当はあったのに対局者が気づかなかったことによって、実現しなかった手というのがあるのだ。
前回は米長邦雄永世棋聖の「ゼット」をめぐる妙手を紹介したが(→こちら)、今回は指されなかったかもしれない、それについて。
話をはじめる前に、まずこの局面を見ていただきたい。
2007年のC級2組順位戦。
真部一男八段と豊島将之四段との一戦。
まだ序盤で駒組の段階だが、ここで後手の「次の一手アンケート」を取ってみると、どんな手が考えられるだろうか。
角交換型の将棋は打ちこみがあるから、気をつかうんだよなあ。
ふつうは△32金かな。次に△44銀から△33桂とか。
△85歩と突くのもあるけど、▲同桂、△同桂、▲86歩の筋には気をつけないと。
あとは△14歩とか、△55歩は1手の価値がないか。となると、飛車を動かして千日手狙いで……。
なんてあれこれ考えてみるけど、知らないで答を当てた人は、いないのではないか。
正解は「投了」。
なんとこの場面で、真部八段は次の手を指さずに、投げてしまったのだ。
と聞くと、
「すわ! 八百長か!」
「おいおい、無気力試合とかマジ勘弁」
なんて苦笑いする人がいるかもしれないが、これには事情があって、このとき真部の体は病に蝕まれ、すでに将棋が指せる状態ではなかった。
事実、一月後に亡くなることになり、この将棋が絶局になるのだ。
このエピソードには続きがあり、入院中の真部のもとに、弟子である小林宏六段が訪れた。
このとき真部は投了図からのある一手を示し、それで自分が有利になると語ったという。
なら、なぜ指さなかったのかと問うならば、そうすると間違いなく豊島四段は大長考に沈むはず。
自分の体調では次の手を待てないから、ここで投げるしかなかったと。
真部はその手を引き継いでもらいたかったそうで、小林が居飛車党なのを残念がったとか。
そんなことがあって、真部による「幻の手」はプロ間で少しばかり話題になったそうだが、このエピソードにはまだ続きがあったというか、ここからが本番である。
その一月後のC級2組順位戦、大内延介九段と村山慈明四段との一戦。
なんとそこで、あの真部-豊島戦と同一局面が出現したのだ。
しかも、この日は真部の通夜が営まれていた。
また、弟子の小林宏は対局で、この日将棋会館にいた。
さまざまな縁が絡み合うようなシンクロニシティで、これだけでも一遍の短編小説のようだが、話はここで終わらない。
なんとそこで大内は、真部が小林に語った「幻の一手」を指し、控室は騒然となるのである。
(続く→こちら)