前回の続き。
1990年、第49期B級2組順位戦の2回戦。
羽生善治竜王と吉田利勝七段の一戦は、横歩取りから、吉田が序盤で意味不明のような「一手パス」を披露し早くも波紋を呼ぶ。
図から△86歩、▲同歩、△同飛、▲87歩、△84飛で、手番が入れ替わっただけの同一局面に。
もらった手番を生かすべく▲75歩と伸ばすが、吉田は△54飛から△24飛と、またも不可解な1手損でゆさぶりをかけてから、△42角と引いて▲75の歩をねらいに行く。
「一手パスして、相手に指させた手を時間差でとがめに行く」
羽生が、今期王将戦第1局でも披露した一手損角換わりが出現してからは、ひとつのテクニックとしてすっかり定着したが、このときはそこまでハッキリと「言語化」されていたわけではなかった。
2006年の第64期A級順位戦。羽生善治三冠と谷川浩司九段の名人挑戦プレーオフ。
かつて「一手損角換わり」が出てきた当初の基本図がこれで、角換わり腰掛銀の「先後同型」に見えて、後手が「一手損」しているため「△85歩」と伸びてないのがポイント。
当時、角換わりの「先後同型」は後手が受け身になり苦しいと言われていたが、この形だと例えば▲75歩と桂頭を責められたときに「△85桂」と反撃する味があって、むしろ後手が有望。
「一手パス」というマイナスをプラスに転じるワザが可視化された戦法で大流行した。
空中戦のスペシャリストである吉田は、経験からこの辺りを勘どころをつかんでおり、しっかりと研究してあったようだ。
これに惑わされたか、▲77桂と指した手が悪手で、ここから後手がリードを奪う。
ひねり飛車のような形で、自然な手のようにも見えるが、羽生によるとこのまま持久戦にして1歩得を主張するつもりが、意外と先手玉が固くならないのが誤算だった。
それよりもバランスを重視した布陣を敷くべきで、このあたりは経験値と構想力で吉田に一日の長があったというべきか。
羽生の迷走はまだ続き、この▲56歩という手も悪手。
意味としては、将来8筋にいる金で角を責められそう。
そのとき5筋が突いてあれば、▲79角と逃げた手が次に▲45歩の飛車銀両取りのねらいがあって先手が取れるということ。
そう説明されればいい手のように聞こえるが、羽生によると、ここではとにもかくにも▲86歩と、局面をほぐしに行かなければならなかった。
ここから△74歩、▲同歩、△95歩、▲同歩、△74金とテンポよく進出され、にわかに飛車が危ない。
こうなると▲77桂の形が、たたっているのは明白だ。
プレスをかけられて息苦しい先手は、▲39玉と、とにかく固めてチャンスを待つが、△21飛に▲72歩が△71飛の転換を阻止するだけというつらい手。
その裏をついて△73桂と活用し、ますます後手好調。
先手はねらわれそうな大駒を処理すべく、▲79角の早逃げ。
押さえこみを喰らって苦しげだが、こういう局面から若さにまかせてねばりまくり、うっちゃりを決めるのは羽生の十八番。
まだまだ、これからに見えたが、次の手が羽生の希望を打ち砕く痛打だった。
△98歩と打って、この将棋は「オワ」。
▲同香の一手に、△75歩、▲96飛、△84金で先手はどうしようもない。
飛車が完全に死んでいる。
後手の見事な締め技に、なんとか場外に逃れたくても、歩打ちの効果で▲98飛と逃げることができない!
先手陣は△69飛と打たれる手が、メガトン級の破壊力なのに、それを受ける形もない。
なんという見事な指しまわし。まさにスペシャル炸裂。
20歳にして、すでに棋界の頂点に立つ天才相手に、57歳のベテランがこんな将棋を指せるというのが、すさまじいではないか。
以下、勝勢になった吉田は、あまりにうまくいきすぎたせいか明快な決め手を逃し、先手も挽回のチャンスがめぐってくる。
ここからの羽生の馬力もすさまじく、必敗の将棋をものすごい勢いで追い上げ、ついに「逆転か!」という場面まで持ってくる。
後手が△79飛成と角を取ったところだが、ここが羽生にとって最後の勝負所だった。
先手の猛追で、まだ後手が勝ちながら、実戦的な雰囲気はかなりアヤシイ。
野球で言えば、7点ビハインドを2点差まで追い上げ、9回最後の攻撃で先頭バッターが出塁したような感じ。
さあ、次も続けよと言うところで、ここでは▲35角と打つのが勝負手だった。
上下に効きまくり、雰囲気は満載で羽生好みの手と思われたが、苦しい展開に時間を使わされ、残り3分になっていたため、迷った末に選べずゲームセット。
▲63とと銀を取ったのが凡手で、これでは局面にまぎれがなく、吉田を楽にさせてしまっている。
△79竜は実は一手スキになっており、△17銀と打ちこんで、先手玉は詰んでいる。
そんなに難しい筋でもなさそうだが、羽生はこの詰みが見えてなかったそうで、最後まで調子が狂わされっぱなしだった。
それもこれも、やはり吉田による玄人の技の賜物であろうか。
これでまさかの開幕2連敗を喫した羽生は、その後8連勝するも時すでに遅く、Cクラスに続いて、ここでもまた足止めを喰らってしまうのだった。
(A級順位戦編に続く)
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