空中レヴュー時代 羽生善治vs吉田利勝 1990年 第49期B級2組順位戦

2023年01月13日 | 将棋・名局

 「手を渡す」ことが、将棋ではいい手になることがある。

 双方とも指す手が難しかったり、また不利な局面で相手を惑わせたりするため、あえて1手パスするような手で手番を渡す。

 私のような素人がやると単に1ターン放棄しただけになり、ボコボコにされるだけだが、強い人に絶妙タイミングでこれをやられると、ムチャクチャにプレッシャーをかけられる。

 そういう混乱と恐怖を生み出す手が抜群にうまかったのが、昭和なら大山康晴十五世名人平成では羽生善治九段だった。

 

 

 2000年の第48期王座戦。藤井猛竜王が羽生善治王座から2-1とリードを奪っての第4局。
 激戦のさなか、△65桂の存在や馬の質駒など様々な懸案材料のある中、じっと端に味をつけるのが「羽生の手渡し」。
 1手の価値があるか微妙なところだが、これで相手を惑わせ、プレッシャーのかかるカド番の将棋をはね返した。
 

 

 前回はC級1組順位戦で、ベテラン剱持松二七段まさかの敗北を喫した将棋を紹介したが、今回は羽生将棋から意表の「手渡し」を見ていただきたい。

 ただし主役になるのは彼の方ではなく……。

 


 1990年の第49期B級2組順位戦

 羽生善治竜王と吉田利勝七段の一戦。

 羽生といえば、のちに24歳名人になるがC2C1とそれぞれ1期ずつ足止めを喰らうなど、それまでの道程では意外な苦労があった。

 このB級2組でも、ちょうど初タイトル竜王を獲得したこともあって、

 「今度こそ1期抜け

 期待は高まるが、初戦で伏兵の前田祐司七段に敗れてしまう。

 順位下位ということもあって、早くも剣が峰に立たされた羽生だが、続く第2戦でも大苦戦を強いられるのだ。

 吉田の先手で始まった将棋は、相掛かりで▲36銀と出る形から中盤で千日手に。

 先後入れ替えで指し直しになったが、羽生は先手を得たものの、持ち時間は1時間と吉田は3時間9分で差があり、一概に得ともいえないところ。

 「序盤は飛ばして行こう」と意識していた羽生に、吉田がいきなりワザをかける。

 

 

 

 それがこの局面。

 まだ序盤のなんてことないところだが、ここで吉田は羽生をして、

 


 「私には100年考えても思い浮かばない着想です」


 

 そう言わしめた手順を披露する。

 

 

 

 

 △86歩、▲同歩、△同飛、▲87歩、△84飛
 
 この図を上のものと見比べていただきたい。

 そう、なんとこの両局面、まったく同じ形なのである。

 違うのは手番が後手から先手に移っただけ。つまり、この局面の吉田は一手パスしたわけなのだ。

 将棋のテクニックにおける一手パスは、パスではあるけど端歩を突いたり、遊び駒を動かしたりと、

 

 「手番は渡すけど、いい手でとがめられないと次は一気に行きますよ」

 

 といったような無言のプレッシャーをかけるものが多い。

 
 
 
 羽生善治五段と森内俊之四段の一戦で、じっと端歩を突いて手を渡したのが、米長邦雄永世棋聖も絶賛した「伝説」の一手。
 後手から次に△65歩、△75歩、△86歩、△49角など様々な攻め筋があるところ、堂々と「やっていらっしゃい」と。
 森内は△65歩から攻めかかるが、「動かされている」と懸念した通り、これは羽生の待ち受けるところで、以下猛攻を受け切って圧勝。新人王戦初優勝を決める。

 

 

 どっこい、この吉田のパスはそういったかけ引きや、意味があるのかどうかも不明な、まさに純正一手パス。

 こんな手が、果たしてあるのだろうか。

 「一手パス」による駆け引きを大きな武器とする、あの羽生が困惑するのだから、本当に不思議な手順。

 羽生は▲87歩と打つ前にトイレに立ったそうだが、単なる尿意だけによるものではなかったはずだ。

 ただこれこそが、57歳のベテラン吉田利勝の見せたワザだった。

 吉田は先手なら相掛かり、後手なら横歩取りの空中戦に独特の感覚を発揮する異能派で、その指しまわしは「吉田スペシャル」と恐れられていた。

 そのスペシャリストからすれば、ここで先手に有効手がないというのが見えていたわけで、現に羽生本人も、

 


 「指されてみて自分の指す手が難しいので、二度ビックリ」


 

 そう、羽生はすでににかかっていたのだ。

 手番を生かすべく、羽生は▲75歩と伸ばすが、吉田は△54飛から△24飛とゆさぶりをかけ(またも一手損!)、△42角と引いて▲75をねらいに行く。

 

 

 

 

 「一手パスして、相手に指させた手を時間差でとがめに行く」

 という、のちの一手損角換わりなどに共通する手管だ。

 

 (続く

 

 

 


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