「悪手」「フルえ」こそ人間の将棋のおもしろさ 将棋ソフトやAIの出現について

2021年02月06日 | 将棋・雑談

 「将棋AIも、すっかり定着したもんやなあ」

 

 というのは最近の将棋中継を見て、よく思うことである。

 昨今、ソフトを使った研究や「評価値」を参考にしながら観戦するスタイルが当たり前になった将棋界だが、数年ほど前には、ソフトが人間を凌駕した、といっていいような結果を次々とはじき出し、

 

 「プロ棋士の、いやさ人間の指す将棋に価値がなくなるのでは」

 

 なんていう恐れを喚起させた時期もあったもの。

 その後は、AIがあまりに圧倒的になってしまったことや、「藤井フィーバー」のどさくさ。

 また将棋界の象徴ともいえる、谷川浩司九段羽生善治九段が、この問題に関して穏健派だったことなどなどあいまってか、あまりそういうことも聞かなくなったが、私自身は、なぜ一部の人があんなにソフトを否定するような発言をするのか、いまひとつピンとこないところはあった。

 羽生世代の棋士たちがデビューしたころからの将棋ファンで、わりと歴の長い方だと思うが、ソフトに対するアレルギーというのは、まあ、ほとんどないといっていい。

 だから、電王戦でプロ棋士が負けたときも

 

 「へえ、ついにか。すごいなあ」

 

 おどろきこそしたが、まあまあの数のファンが感じたであろう「ショック」というのには無縁だった。

 いやむしろ、

 

 「これでまた、将棋がおもしろくなるかも」

 

 という期待すら抱いたほどである。

 それは私が将棋ファンであると同時に、SFも好きであるからかもしれない。
 
 なので単純に、「棋士が将棋ソフトにかなわなくなった」ことよりも、

 

 「ソフトが人間を超えた先に見える、世界の広がりと、新しい将棋の可能性」

 

 こっちの世界の方が、将棋ファン的にもSFファン的にも、ずっと魅力的に見えたからだ。

 なので、これに関してはプロ棋士の中でもハッキリと、

 「機械の指した手など価値がない」

 なんていう発言する人もいるわけだけど、なんか、それもちょっと狭量ではないかと思ってしまうわけなのだ。

 私も長年将棋を観ているから「プロの矜持」というものに尊敬の念を抱いてはいるけど、もしそれが、

 

 「新たな発見や、他の技術や価値観を受け入れないところにある、せまい世界」

 

 これで担保されているものだとしたら、正直それは、わりとどうでもでいいんである。

 だって、将棋はプロだけのものじゃないんだし。
 
 私はただ、新鮮でエキサイティングな戦いやアイデアを、たくさん見たいだけ。
 
 その発信源はプロでもアマでも機械でも、すべて平等に期待したいわけだから、わざわざ語り手の範囲をせばめる必要などない。
 
 なもんで、
 
 
 「ソフトの将棋は合わない」
 
 「好きじゃない」
 
 「興味がない」
 
 
 なら個人の嗜好だから別にいいけど、「価値がない」という意見には、
 
 
 「いや、そんなことはないっしょ」
 
 
 としか答えられなかった。
 
 好き嫌いは自由だけど、「価値」があるかないかは社会歴史もふくめた、もっと大きなものが、おそらくはゆっくりと時間をかけて判定していくのだから。
 
 そもそも、そういう人って、アランチューリングジョンフォンノイマンといった偉大な先人が残してきた業績も「価値がない」と言うのだろうか。
 
 それはあまりに傲慢だし、他の分野でがんばっている人にリスペクトを欠いている気がしてならない。
 
 「矜持」があるからって、何言ってもいいわけじゃないと、思うわけなのだ。
 
 人が自分の仕事や既得権を侵害されそうになったとき、危機感をおぼえるのは「ラッダイト運動」や「ジョンヘンリー」など歴史の「あるある」だから、「価値がない」とムキになるのも、そんなにおかしな反応ではない。

 ただ私は「羽生世代」によって、古き将棋界がどんどん変えられていく様を見てきた。

 それはおそらく「産業革命」のような歴史の転換期であり、先崎学九段羽生善治九段を評したように、

 

 「七冠王や国民栄誉賞をもらうことより、すごいこと」

 

 その時代の変遷に立ち会う興奮を存分に楽しめた。

 なら、ここでもうひとつ生まれたパラダイムシフトを否定するというのは、筋が通りもしない。

 それでは当時の若い棋士たちがもたらした「新しい時代と将棋」を、理解しようともせず叩いたりバカにしたりした、旧弊な昭和の棋士や評論家と変わらないではないか。

 羽生さんがAIに否定的でないのは、もしかしたら「当時のこと」をおぼえていて、同じ轍を踏んでもしょうがないと感じているからかもしれない。

 そもそもこの手の「新しい技術に対する、なかばヤカラのような嫌悪感」に関しては、

 

 「シャーペンを使うと字がきたなくなる」

 「ワープロを使うと文章が下手になる」

 「ケータイを持つとバカになる」

 「インターネットを介したつきあいなど、本当のコミュニケーションではない」

 

 などなど、山のような「言いがかり」を見てきたから、正直信用できないところもあるしなあ。

 人は新しいものに無条件で警戒心を抱くものだから、それはしょうがないけど(もちろんだってそうですし)、なんだかなあという気分にはさせられた。

 この問題に関しては様々な意見があるし、「変わらない良さ」が将棋という伝統ある遊戯のいいところだとも思う。

 ただ、私は以上のような理由で、ソフトに関してはどれだけ人間と感覚が違おうが、羽生善治や藤井聡太を凌駕しようが、なんとも思わなかったし、これをきっかけに、将棋と将棋界が、どんどん色んな方向に転がってほしいと願っている。

 誤解してほしくないのは、私はソフトに関しては容認派だが、AIが人間より強くなろうとも、決してそれで人の指す将棋の価値が下がるとも思っていないこと。

 なんといっても、人の将棋のおもしろさは「悪手」「フルえ」をはじめとする心の揺れなど、「人の不完全なところ」にこそある。

 ソフトの発達は、むしろそういった

 

 「人間同士の戦いのおもしろさ」

 

 これを再確認させてくれたといってもいいほどなのだ。

 そう、人は完璧ではないからこそ、そこにドラマが生まれる。

 今期の竜王戦第3局や、羽生善治九段と佐藤康光九段A級順位戦のように。

 どんな超人でも、決して逃げられない人のブレと、クールなAIがときに相反したり、ときに融合したりしながら、創り出していく新しい世界。

 豊富なネット中継とともに、それを味わえる今のファンは本当に幸運で、私も羽生さんのように好奇心を失わず、新時代の将棋も楽しんでいきたいものだ。

 

★おまけ 「人間同士の戦い」のおもしろさを凝縮したと自分が思う将棋が→こちら

「心のコントロールのむずかしさ」が生む「論理の中の非論理」が存分に味わえます。

 


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