前回(→こちら)の続き。
友人フカエ君の指摘により、
「なぜバードマンは、死ぬほどいそがしいアイドルをパーマンに選んだのか」
という命題について考えていたが、ラジオ番組「ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル」に、そのヒントが隠されていた。
そこで宇多丸さんとコンバットRECさんが、アイドルの魅力について、こんなことを語ったのだ。
「アイドルはMであり、プロデューサーがS。アイドルの輝きは、いかにスタッフ側が彼女たちに《負荷》をかけるかにかかっている」
なるほど、そこか。
たしかに、つんくさんにしろ秋元康さんにしろ、とにかくやることといえば、
「アイドルに不条理な試練をあたえること」
というのが定番である。
「セールスが低かったら解散」
「チームをシャッフル」
「総選挙」
などなど、そんな無茶ぶりをかまし、それを少女たちがいかにボロボロになりながら乗り越えていくか。
その健気な美しさに、ファンは涙するのだと。
私自身がアイドルという文化にイマイチ乗れないのは、まさにこの「負荷」の部分が見ていてしんどいからだが(「そんなことしてやるなよ」とか思っちゃうのだ)、構造としては理解できる。
岡田斗司夫さんは、「感動」という状態について、
「自分には無理だと思う、努力や愛や達成感を、《自分の代わりに、だれかが色々なものを乗り越えてやってくれた》のを見ると人は心揺さぶられる」
そう定義づけておられ、それはまさに、人の
「応援したい欲」
「他人を介した自己実現」
「そんなことしかできない自分という罪悪感の陶酔」
「他人を介した自己実現」
「そんなことしかできない自分という罪悪感の陶酔」
などを刺激し、涙を流さしめるのだ。
たとえばキリスト教なんかも、《人間の罪を、すべて背負って死ぬ》というだれもできない無茶ぶりを、十字架にかけられることによって達成する。
という行為によって人の心をとらえるとか、流れ的には同じようなものであるわけだから、宇多丸さんたちのいっていることは、わりと普遍的なことだとは思う。
平たく言えば、クーラーの効いた部屋で見る、夏の甲子園の楽しさ。
人というのは、
「自分以外のだれかが、しんどい思いをしている」
これを見ると、感動するわけなのだ。
それが、まだか弱い少年や少女なら、なおのこと。
この視点から見ると、バードマンが星野スミレに、パーマンセットをたくした理由がよくわかる。
そう、まさに彼がやりたかったことは、
「アイドルに負荷をかける」
という行為であり、ただでさえ殺人的に働かされている彼女に、
「無報酬の多重労働」
を課すことによって、
「睡眠時間のさらなる削減」
「少女がかかえるには大きすぎる義務感による、精神的ストレス」
「須羽少年登場による《恋愛禁止》事項との葛藤」
「少女がかかえるには大きすぎる義務感による、精神的ストレス」
「須羽少年登場による《恋愛禁止》事項との葛藤」
などなどの、さらなる重荷を背負わせ、そこに責めさいなまれるアイドルを楽しく鑑賞しようというわけだ。
これには私も、蒙が啓かれる思いだった。
アイドル音痴の自分にはピンとこなかったが、さすがはプロの宇多丸さんとRECさん、本気で、心底感心させられた。
以上の分析をフカエ君に伝えてみたところ、
「なるほど!」。
そう声をあげ、感に堪えたように、
「だとしたら、天才の仕事や……」
友は深くうなずきながら、
「ええよなあ。オレも小倉優子に銃突きつけて、《クルクルパーにしちゃうぞ!》とかいえる店あったら、通うもんなあ」。
などと気の狂ったような未来への希望を語っており、まさにこういうファンこそが「負荷」の最たるかもしれない。
友の異常性は、その意味では「正しいありかた」なのだ。
こうして、宇多丸さんとRECさんの鋭い指摘により、またしても謎がひとつ解き明かされた。
ここにもう一度確認しよう。バード星の使者が、地球に残したかったメッセージとは、愛と正義と地球の平和と、
「見てくれ、オレのアイドルプロデュース能力」
という、やはり中2病的自己顕示欲なのであった。
☆おまけ コンバットRECさんの選曲が冴えまくる「タマフル」アイドルソング特集は→こちらから