「穴熊の暴力」という言葉がある。
前回、「終盤の魔術師」こと森雞二九段の泥臭い逆転劇を紹介したが(→こちら)、今回はそんな森将棋にリスペクトをかくさない棋士について。
穴熊という囲いはくずすのに時間がかかるため、通常ではゆるしてくれないような、無理攻めや細い攻めが通ったりする。
特に居飛車穴熊でそれが顕著で、振り飛車側が序中盤で多少ポイントを稼いでも、囲いのアドバンテージを使って、力まかせにひっくり返されたりするのだ。
とにかく、
「トン死筋がない」
「王手すらかからないから、終盤の競り合いで自陣を見なくていい」
というのは、盤上のみならず、精神的にも安心でミスも減りやすい。
好き嫌いはあるし、バランス重視の将棋が評価される最近では、以前ほどの脅威はないそうだが、それでもうまく使えば実戦的に「勝ちやすい」のは事実だろう。
1990年、C級2組順位戦の3回戦。
先崎学五段と依田有司五段の一戦。
依田の三間飛車に、先崎はすかさず得意の穴熊にもぐり、華麗なさばき合いから、両者とも敵陣に飛車を打ち合って寄せ合いに突入。
図は先手の依田が、▲44歩と筋よく突いたところ。
△同歩なら、▲43歩と打って、△24角に▲53角成。
歩の代わりに、直接▲43銀打とたたきこんでも相当だ。
この筋に歩が立つようになれば、どこかで▲49歩の底歩を使って、一手かせぐこともできるかもしれない。
攻めのお手本のような歩突きで、先手の調子がよさそうだが、ここは先崎がねらっていた局面だった。
△39竜と、ここでバッサリ切るのが、穴熊流のするどい大刀さばき。
▲同玉で、一見それ以上の攻めがないように見えるが、取った金を△51金と、ここに打ちつけるのが継続手。
飛車がせまい先手は▲63飛成と逃げるも、△62香の田楽刺しを決めて、▲72竜に4筋の傷はかまわず、△64香と角を取る。
手番をもらった先手は待望の▲43歩成だが、これには△同金(!)と取ってしまって、▲同銀成に△46歩のタタキが、強烈極まりない一撃。
この局面を見ていただきたい。
後手は金を一枚ボロっと取られたが、自陣に駒の数が多く、ほとんどダメージを受けていない。
一方、先手陣は美濃囲いの要である▲49の金がいなくなり、と金と△46歩の位置が玉に近すぎて風前の灯火。
自玉を補強する手段もないし、攻め合うにも一手違いどころか、3手くらい遅れている印象。
▲42成銀と角を取っても、△同金右で、なにも起こらない。
若手時代の先崎の切れ味と、穴熊の強みがこれでもかと発揮された展開だ。
以下、▲46同金に△57角と打って、後手だけが攻める展開で圧倒。
この一連の手順にはおどろかされるとともに、なんともいえない不条理も感じたものだ。
というのも、先手が指した▲44歩というのが、非常に感触がいいというか、「将棋の本筋」ともいえる手だからだ。
これが穴熊には通用しない。
この、ふつうの将棋における文法なら、明らかにいい手のものが、「悪手」や「緩手」になってしまうところに、穴熊の持つ「不条理」がある。
この一局は、居飛車の攻めがかなりスマートなため、あまり「暴力」感はないが、それでもこの▲44歩がまったく通らないところなど、負かされた方は全力で納得がいかないだろう。
たしか、ここでの最善は▲44歩のところで、▲81と、と駒を補充しながら飛車を楽にするところだったそう。
とはいえ、あの堅陣を見れば、こんな堂々とした手は、さすがに指せない。
後手からは△57桂のような、地味だが着実な攻めがあり、それなら、なんとか1枚でも、穴熊の装甲をけずりたいとなるのも人情だろう。
それが通らないのだから、振り飛車側も困惑するしかない。
いわば、華麗な剣舞を披露する騎士が、戦車やマシンガンの前にはまったくの無力であるような無常感がある。
振り飛車党の逆襲は、この5年後の「藤井システム」誕生まで待たなくてはならない。