第二外国語の選択はむずかしい。
というテーマで以前少し語ったが(→こちら)、私の場合はドイツ文学科に進学したので、これに関しては泣いてもわめいても「強制ドイツ語」。
前回までシュテファン・ツヴァイクについて語ったが(→こちら)、今回も、私をそんなマイナー街道へと導いた、罪深くもすばらしい作品の数々を紹介している。
エーリヒ・ケストナー『ケストナーの終戦日記』
ドイツ文学には昔からひとつ弱点があるといわれている。
それはフランツ・カフカのように「難解」なことでもトーマス・マン『ブッデンブローク家の人々』のように、「重厚で長い」ということでもなく、
「ユーモアに秀でた作品が少ない」
基本、マジメなイメージのゲルマン民族。
加えて、そもそも寒くて暗い気候のところに、笑いを生む余裕が出てきにくいのか、ドイツの物語文化には「ユーモア」がないといわれがちだ。
たしかに古典では、レッシングの『ミンナ・フォン・バルンヘルム』なんかも、悪くはないけど、傑作というほどでもないかもしれない。
いわゆるコメディ的なものでなくとも、シリアスな中に、そこはかとなく「人間喜劇」をちりばめるところなどは、イギリスやフランスの諸作の方が、うまい気もしないでもない。
だがもちろん、われらがドイツ軍も「ほらふき男爵」ことミュンヒハウゼン。
オーストリアからはシュニッツラーの『輪舞』のような、軽妙な恋愛喜劇もあったりして、思ったほど堅物でもないところを見せている。
そんな少数精鋭(?)を誇る、我らドイツのユーモア師団だが、中でも世界的知名度の高さでは、エーリヒ・ケストナーの名が上がるのではあるまいか。
『ふたりのロッテ』
『エーミールと探偵たち』
『点子ちゃんとアントン』
など、楽しい児童文学で知られるケストナーだが、実のところ彼の持ち味は、骨太なモラリストであること。
ケストナーの作風はやや説教臭く、実際物語の合間合間に「教訓」みたいなコーナーを設けて、
「お母さんを大切にしましょう」
「友達は大事だよ」
「貧しい人には慈悲の心を忘れずに」
みたいなことを、わざわざ書いてしまうのだ。
ふつうなら、
「なんだこれは」
「うっぜーなあ」
あきれてしまうところだが、存外そうはならないのが、ケストナーの妙味であり、それこそが実は「ユーモア」の力。
そう、ケストナーはまじめで倫理を重んじる作家だが、それを詩にしたり、ゆかいな物語の中にまぜこむことによって、
「大人の押しつけがましさ」
これを消すことに、成功しているのだ。
後年、カート・ヴォネガットを読んだとき、
「これ、ケストナーですやん!」
と思ったものだが、月曜日の朝っぱらから校長先生に全校生徒の前で、
「友情は大事だよ」
とか言われても、
「はあ?」
「うるっせーよ、早く話を終わらせろや!」
だけど、ウルトラマンやプリキュアの「神回」のテーマがそれだったら、素直に心に突き刺さる。
ケストナーのすごいところは、大人になってもそのことを忘れていないこと。
これは、自分が「大人」になればわかるけど、案外できることではない。
またケストナーの、ともすればめんどくさくなりがちな「モラル」の部分に説得力を持たせている要素は、もうひとつある。
それは、彼自身が命を懸けて、それを守ろうとした意志の力によるものだ。
(続く→こちら)