前回(→こちら)に続いて、ハンガリー格安フォアグラ戦記。
首尾よく仕入れもすませ、いよいよ宿に帰って調理である。
すでに言っているが、アパートにはキッチンから調理用具、食器に調味料まで用意されている。
スーパーでクックドゥーのステーキソースと、日本の心お醤油も用意した。
あとはチャチャっと料理して、ハグハグ食べるだけだ。
余談であるが、ヨーロッパではキッコーマンが、かなりメジャーな存在であるらしい。
プラハの宿では朝食のバイキングで、バターやジャム、蜂蜜といったものとならんでキッコーマンの醤油のビンがおいてあった。
パンやシリアル、チーズに紅茶といった、純欧風のメニューのどこに醤油を使うのか疑問だったが、スープにでも足すのだろうか。いまだに謎である。
まあ、ともかく醤油があるのはありがたい。これをかければ、たいていの食材はうまくなる。
私は一人暮らし歴は長く、それなりに自炊もしないことはないが、基本的には料理に興味がなく、またそれゆえか下手でもある。
なもんで、せっかくのフォアグラも無手勝流に手を入れると、とんだ惨状が待っていると思われるが、昨今は便利なもので、スマホで検索すればふだんはなじみのない「フォアグラレシピ」なるものも手にはいるのだから、文明の利器とはすばらしい。
ここは変に考えず、ネットに載っているとおり、マシンのごとき調理するのが吉であろう。
ソースを作って肉を焼いて、フォアグラにも火を入れる。
焼きすぎないように火力を調節して(私のような料理が下手な人は、こういう一手間を惜しみがち)、最後に熱したフライパンごと醤油をざっとかけて、はいフォアグラステーキの出来上がり。
完成したステーキは、分厚いのが2枚という豪華版の上に、あふれくるマグマのごときフォアグラがのっかっている。もうボリューム満点。
そこにパプリカと、ジャガイモとナスの炒めものもつけて、ではいっただっきまーす。
備え付けのナイフとフォークで、モリモリいただいた人生初フォアグラは、まあなかなかの味であった。
フォアグラというと身構えるが、要は脂ののったレバーということであり、私は内蔵系はOKなので問題ない。
セレブなミーは、独特のねっちりした食感を味わいながら、
「うーん、これでレバニラ炒めを作ったら、どんな感じになるんやろ」
なんてことを考えてしまうのが、どこまでいっても根が庶民のミーである。
ハンガリーは残念ながら牛肉をあまり食べない土地柄か、ステーキの方はそれほどでもなかったが、フォアグラの方は堪能できた。
味もさることながら、その量である。なんといっても、安いのをいいことに、400グラムも買ったのだ。
同行者と2人で食べたから、半分に分けて200グラムだけど、それでも相当の量である。
これだけ食べて、ひとり500円。
やっすー。
さらには、同行者が「こんなに食べられへん」と残し(なんてブルジョアな!)、置いておくと味が落ちるから、まだ温かいうちに私がいただいて、これでまあ300グラム以上はたいらげたことになる。
フォアグラを300グラム以上!
これだけ聞くと、ものすごい贅沢である。でも、値段は750円。やよい軒の定食程度。
あまり値段のことばかり言うと育ちがばれるが、それにしても感動的な安さである。
こうして、おそらく人生における全フォアグラ含有量を、ここで突破してしまった私は、満腹のお腹を抱えて倒れこむことになった。
フォアグラ自体は食感も軽く食べやすいのだが、フワッとして見えてあれは実はモーパッサンも裸足で逃げ出す脂肪の塊。
ちょっと食べただけで、存外と腹にくるのだ。
それを300グラムを食べた日にはあんた、そりゃ胃もたれも起こそうというもの。
焼き肉屋で、牛脂をそれだけ口に入れたと想像すれば、私の苦しみもわかろうというものだ。
そうして、「もうフォアグラは充分。しばらく見たくもないよ」とうなったプチブルの私がここで心底感じたのは、
「あー、お茶漬け食べたい」
私は外国に行っても、あまり日本食が恋しくならないタイプである。
元から食に興味がないタイプだからだろうか、パンばっかりでも平気だし、衛生状況に問題ありそうな屋台などでも、腹をこわしたりしない。
なもんで、友人と旅行したときなど、彼らが旅行3日目くらいから、
「米の飯が食べたい」
「タクワンがほしいなあ」
などというのを、なんと軟弱な奴らなのかとあきれ、
「フ、ど素人が」
などと、南倍南のごとくひそかに見下していたのだが、ここへ来て私ははじめて彼らの気持ちがわかった。
フォアグラを食べると、ものすごくお茶漬けが食べたくなります。いや、マジで。
こうして「青いガーネット作戦」は成功に終わった。
安くフォアグラを大量にいたいただいた私は、ハンガリーの豊かな食事情とフォアグラで満腹するという貴重な体験をし、そしてなにより
「野沢菜で食べる、お茶づけは偉大だなあ」
という、日本人としての真理を学んだのである。