前回(→こちら)の続き。
1995年1月。
将棋界は、いや日本列島は「七冠フィーバー」で湧きに湧いていた(第1回は→こちらから)。
もうすぐ開幕する第44期王将戦、谷川浩司王将に羽生善治六冠が挑戦する七番勝負。
これを羽生が制すれば、竜王・名人・棋聖・王位・王座・棋王・王将の七大タイトルをすべて保持する「七冠王」が誕生するからだ。
これだけでも大変な事件だが、このころさらにすごかったのが、われわれのような将棋ファンのみならず、世間一般からも大注目されたこと。
テレビはもとより、新聞、雑誌など各種媒体が取り上げ、対局場には大人数の取材陣がかけつける。
ついには羽生に、人気タレントのような「おっかけギャル」がつくなど、もうてんやわんや。
その様子はまさに、藤井聡太王位・棋聖が「29連勝」を目指していたときのような熱狂だったが、ともかくも、日本中の耳目を集める世紀の大勝負が開幕だ。
そんな風雲急を告げる中、このシリーズにさらなる大きな衝撃があたえられることとなる。
1995年の1月といえば、特に関西在住の人間には、忘れられない出来事。
そう、17日早朝の阪神・淡路大震災だ。
七番勝負は12日に開幕して、初戦は谷川が、羽生のひねり飛車を打ち破って先勝。
後手番での勝利とあって、幸先のいいスタートを切ったところだった。
そこにこの悲劇。神戸市の六甲アイランドに住んでいた谷川も当然、被害にあった。
家族もふくめ無事なのは幸運だったが、これでまともに、将棋を指せるのかと心配されたもの。
このときの谷川の心境は、いろんなところでの取材やインタビューなどで読むことができる。
だが、当時の谷川は自身の今の状況や、将棋と震災をメディアの好む「浪花節」「お涙頂戴」的な、安易な物語としてあつかわれるのを、避けているフシがあった。
なので私ごときが、わかったようなことを書き散らかすのは避けたいが、もちろん影響がまったくなかったなどは、ありえないことだろう。
混乱の中、震災の6日後に行われた第2局も、第1局に続いて谷川のキレ味するどい将棋が見られる。
相矢倉から、後手の羽生が5筋の歩を交換して、急戦調の展開に。
後手が△35に攻防の角を打ったところ。
玉形に差があり、端の位も大きく先手が指せる展開。
後手の角と銀が一瞬不安定で、先手の馬の位置もよく、いかにも技がかかりそうなところ。
その通り、ここで谷川は一気の踏みこみを見せるのだ。
▲13桂成、△同香、▲44歩が、キリで急所を一突きする鋭手。
飛車、角、金とたくさん取る手があるが、どれを選んでも▲36歩とか▲46銀とか、角交換して▲55角。
さらには好機に▲14歩や▲24飛の補充もきいて、これらを組み合わせていけば、先手は攻めが切れることはない。
手段に窮した羽生は△57銀成と特攻するが、▲43歩成から▲32と。
一直線に踏みこんで、角交換後に▲65角が、間接王手飛車で勝負あり。
「前進流」「光速の寄せ」の良さが存分に出た形で、これで開幕2連勝。
羽生の勢いや、「七冠王爆誕!」を期待する世論の声に押されるのではという懸念は、ここに払拭されたと言っていいだろう。
意外と言っては失礼だが、谷川の好スタートに
「あれ? ここまで来て七冠はおあずけ?」
風向きが変わりそうと見せかけて、あの羽生善治は、ここで簡単に引き下がるタマではない。
もちろん震災の衝撃や、谷川の奮起に思うことはあったろうが、勝負となれば話は別。
また羽生はこういうときに、ブレないというか、斟酌のようなことはあり得ない男だ。
当然、ここから逆襲をねらってくるわけで、第3局は相矢倉から羽生が穴熊にもぐって激しい攻め合いに。
最終盤、△87と、と金を取った瞬間に▲41飛と打って一手勝ち。
以下、△31金打に▲42と、で先手玉に詰みはない。
穴熊の深さを生かしたクレバーな勝ち方で、これでひとつ星を返す。
この結果に思わず指がパチンと鳴る。こうこなくては。
七冠王が実現するか、谷川が意地を見せるかは時の運というか、最後は神のみぞ知るだが、われわれ見ている方の望みはどちらに肩入れしようと、
「この時間を、とにかく、たくさん味わいたい」
で決まっているのだから。
(続く→こちら)