あらゆる「抑圧」が嫌いだ。
子供のころから間の抜けたボンクラだが、「抑圧」「暴力」「差別」「搾取」というのはするのも、されることも、できるだけ避けて生きてきた。
ときにそれを押しつけられそうなときは「喧嘩上等」くらいの気持ちであり、周囲から「安パイ」あつかいされる人間が、そこだけはゆずらないんだから、よほどそういうものとソリが合わないのだろう。
だから、今でも「ベルリンの壁崩壊」の映像を見ると、つい見入ってしまう。
それが「抑圧からの解放」の象徴のようなシーンだからだ。
見るといつも思い出すのは、学生時代購読していた『月刊基礎ドイツ語』という雑誌のこと。
そこでは「ドイツ統一の問題点」という記事が掲載されており、悲願であった統一を果たしたドイツだが、旧東西地域の経済格差や生活スタイルの変化に戸惑う人々など、その問題点が指摘されていた。
「感動的」な東西の融和でも、物事は理想通りにはいかないものだと感じたが、それでも旧東ドイツに住んでいたというある女子大学生が、こう言っていたのが印象的だった。
「たしかに、今のドイツは問題も多く、統一もスムーズとは言えません」
そう前置きしてから、
「でも、今の私たちは、言いたいことを言えるようになり、なりたいものになろうとすることができます。これは素晴らしいことではないでしょうか」
この言葉が、今でも忘れられない。
言いたいことが言え、なりたいものになろうとすることができる。
そんな当たり前のことが、おそらく彼女だけでなく私にとっても金や地位や名誉なんかより、はるかに大切な何かだったからだ。
けど不思議なことに、こんなささやかな願いを憎み、妨害しようとする人というのが世の中にはいる。
私はそういう人を警戒する。
だれかを抑圧し「その人のためなんだ」なんて、おためごかしを言う人を信用しないし、ましてやそのことを「よろこび」とする人を見ると心の底から落胆する。
今年の夏、読んだ小説にこういう一説があった。
「悪とは、愚か者のなかにあって」
とわたしは言葉をつづけた、
「人を罰し、人を中傷し、喜んで戦争をおっぱじめる部分のことさ」
―――カート・ヴォネガット『母なる夜』
できることなら、自分がおもしろいと思った物語の作者に軽蔑されるような人間になりたくないものだ。
クラウス・コルドンの『ベルリン三部作』を読んだとき、私はこれを「昔の話」と思った。
ドン・ウィンズロウ『仏陀の鏡の道』で描かれた大躍進や文化大革命の描写を「よその国の出来事」と読んだ。
私は単に、甘かったのかもしれない。
最初に書いたとおり、私は間の抜けたボンクラだ。だから、この世界で行われているパワーゲームにはなんの興味もない。
ただ「抑圧」「暴力」「差別」「搾取」と、それを是とする人が大手を振って闊歩する光景だけは見たくない。
昔の東ドイツにかぎらず、若者が「言いたいこと」すら言えない社会があることを憂うくらいには。
『将棋世界』の表紙で、ほほ笑む藤井聡太七段の横にヘイト本が並んでいるという現実に、悲しみと憤りをおぼえるくらいには。
私など無力な存在だが、少なくとも「誰かの用意した憎悪」に乗っかることを「みっともない」と感じる心と、拒否する意志くらいは忘れないようにしたいものだ。
合衆国、あるいはそのいずれかの州、あるいはいずれかの都市に訴える。
大いに抵抗し、服従は少なく。
―――ウォルト・ホイットマン「合衆国へ」
それでは本年度はここまで。