変わった趣味の人を見ると話を聞きたくなるのは、自分が将棋ファンだからだろう。
ということで、前回ここで
「数値などに出る《タテの評価》ならわかるけど、《ヨコの価値観》に優劣をつけようとする発想が、あまり意味がない」
という話をした。
要するに「100メートルを何秒で走るか」「テストで何点取れたか」は一応(これもあくまで「一応」だけどね)優劣はつけられるが、
「軟式テニスと硬式テニス」
「アニメ映画と実写映画」
「カポエイラと殺人空手」
といったような「横並び」のものに、どっちが上とか下とか言っても、たいした意味もないし、そこで生まれる「マウントの取り合い」にも興味ないわけだ。
なんてことを考えた、きっかけのひとつに、高校時代の思い出がある。
今はどうか知らないけど、私が10代のころはスポーツと言えば圧倒的に野球がメジャーであった。
たとえばサッカーが今のように普及するのは1998年のワールドカップからで、それ以前は国民的スポーツと言えばもうこれがプロ野球と高校野球が圧倒的だったのである。
そのせいか、わが母校である大阪府立S高校でも、野球部が妙にイバッていた。
なんであんな、他の運動部より「格上」感出してたんだろうか今でも謎だが、なーんとなく「ウチらは花形クラブ」って空気感で校内を闊歩していた。
そもそも野球に興味ない生徒にとっては、そんなもん「ゴージャス松野の今」くらい興味ない。
加えてウチの世代のチームはなんと、公式戦で1勝もできないまま引退してたのに、それでも自信満々で本当に不思議だったのだ。
まあ、S校は校風的に超ゆるかったから暴力的だったとか、そんな嫌な思いをしたわけでもないけど、
「根拠がよくわからない」
というところが、個人的な引っ掛かりではあったのだ。
私の感覚では野球部もテニス部も、茶道部も文芸部も同じクラブ活動にすぎないからだ。
翻訳家で、ポール・オースターやスティーブン・ミルハウザーの名訳でも知られる柴田元幸先生は、あるエッセイでこんなことを書いている。
一九六〇年代なかばのベトナムが舞台のアメリカ映画『グッドモーニング・ベトナム』では、ポルカとロックンロールが対照的に描かれている。
ポルカは、上官が「正しい娯楽」として押しつける、圧倒的に退屈な音楽。
ロックンロールは、上官がマユをひそめる、兵士たちに圧倒的に人気のある音楽。
ロビン・ウィリアムズ演じる人気DJが米国放送でロックンロールをかけまくり、兵士たちは大いに盛り上がる。
そりゃ確かに、歴史的に見ても、当時ポルカという音楽が、新しいエネルギーや創造性をみなぎらせていたとは思わない。
明らかにロックンロールの方が、時代の息づかいを敏感に捉えた音楽であっただろう。
でも、自分の正しさを大声で言うのはみっともないことである。ロックをそういう独善のなかに持ち込んでほしくない。
―――柴田元幸「がんばれポルカ」
古いロックを愛する柴田先生だからこそ、あえて言いたくなったのだろう。
私もあの映画におけるロビンの「独善」にはウンザリしたクチ。
彼はきっと将来、若者にロックを「正しい娯楽」として押しつけるに違いない。あー、イヤだ、イヤだ。
別に音楽に優劣なんてない。でもなんか、時にまるでロック(人によってはクラシックだったりジャズだったりそれぞれ)が「すぐれた音楽」であるかのようなアピールをする人がいる。
音楽にはくわしくないけど、それこそロックがそういう態度を取るのは「ロックじゃねーな」という気分にはさせられる。
実際『20世紀少年』をはじめ「ロック世代」の描く
「ロックは世界を救う」
みたいな作品には一様にロビンと同じ、そういう欺瞞がかくされている気がするぞ。
ポルカもロックも、クラシックもジャズもアニソンも、アイドルソングも演歌も歌謡曲もすべてヨコに等価である。
そこあるのは、ただ「好き」という感情だけだ。
でもそれを、そのときたまたま「権力」があるからといって振り回すような者がいれば、そういう人とはあまり友達になりたくないものである。
★おまけ
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