「オレはネットがなかったら、海外旅行とかそんなに行かへんかもなあ」
先日、近所の焼肉屋で、そんなことを言ったのは友人ヤオ君であった。
海外旅行にかぎらず、なにをするにもインターネットを利用というのは、現代では当たり前の話である。
旅をするにも、宿の予約から安い航空券の情報。現地情報も検索すればいいから、重いガイドブックを持っていく必要がなくなった。
果ては、グーグルマップのナビで迷子にならないとか、翻訳機能で言葉の壁まで飛び越えて、海外に対するハードルがものすごく低くなったのはたしかだ。
私も旅行好きだが、若いころはネットこそもうあったものの、スマホなどはなく、インターネットカフェを利用する必要があった。
ただそれも、日本語対応のパソコンがなかったり、予約なども英語や現地語でやらないといけなかったし、場所によってはそもそも店がなかったりして、そんなに実用的でもなかったのだった。
それとくらべると、今はもう別世界かというほど便利になったというか、キミとかネットなしで、よう外国とか行ってたな、てなもんである。
そんな、新旧旅行者比較文化論のような話題になったのは、グレゴリ青山さんの『深ぼり京都さんぽ』という、エッセイマンガを読んだのがきっかけ。
その中で、グレゴリさんがバックパッカー仲間の友人と、こんな会話を交わすのだ。
「若い子に、インターネットもない時代によくバックパッカーしてましたねって言われてん」
同じことを言われている。
私はグレゴリさんより歳は下だけど、ネットのあるなしでいえば、どちらも体験しているわれわれ世代だと、ジャンル問わず、こう言われることが多いらしい。
続けて、グレゴリさんたちはこうも話すのだ。
「でもウチらが若いころインターネットがなくてよかったと思う」
「うん、ネットのない時代に知らん国歩けてよかったよね」
「未知」のおもしろさか「便利」の快適さか。
まあ、好みや意見はあるだろうが、これは時代によって色々と変わってくるだろう。
「なにに影響を受けて」旅に出たのかというところでも、個性が出るところで、たとえば旅本の古典である『深夜特急』の沢木耕太郎さんは、小田実さんの世界放浪記『何でも見てやろう』に押されてユーラシア横断に出かけている。
グレゴリさんの世代はNHK『シルクロード』からアジアにというパターンをよく聞くし、そのグレゴリさんの育ての親である『旅行人』編集長の蔵前仁一さんは、仕事からの逃避でインドに行ったら、そこで「インド病」(なんでもかんでも「インドではこうだった」とくらべてしまい、日本での日常生活に支障をきたしてしまう状態)になってしまい、そのままバックパッカー兼旅行作家になってしまった。
このあたりの人は、時代的にネットなど、本当に影も形もない時代に飛び出したパターンなので、旅とはある程度「体当たり」なもので、それが魅力であるという考え方が強いと思われる。
私なんかは、2000年代初頭くらいによく旅行していたけど、先も書いたようにネットはまだ不便で、どちらかといえば場当たり的な旅行になれている方ではある。
ただちょっと違うのは、自分の場合そもそも、旅行に出るようになったきっかけというのが少々変則的で、
「テニスのグランドスラム大会を観戦するため」
そこから、スポーツだけでなく旅の魅力に目覚めたわけだが、ことこれに関しては絶対に昔より今の方が良かった。
なんといっても、チケットを取るのが大変で、オーストラリアン・オープンなんかはセンターコートにこだわらなければ、結構当日券とか取れたけど、他の大会はそういうわけにはいかなかった。
なんで、友達のパソコン借りて英語で(グーグル翻訳なんてない時代です)申込書を書いて印刷してファックスで送ったり。
朝イチで当日券の列に並んだり、現地の日本語代理店で高い手数料を払ったり、ローラン・ギャロスでは前売り券やキャンセル待ちの情報を会場(パリ郊外のブローニュの森にある)までわざわざ尋ねに言ったら、
「英語で受け付けなんてしてないボン。ここはフランスなんやから、フランス語でしゃべれビヤン!」
けんもほろろに追い返されたり(まあ、正論ではありますが)、メチャクチャ大変だったのだ。
それが今では、ネットで申し込みとか、空き情報調べたり、家にいながらキャンセル待ちをチェック出来たり、まー便利なことこの上ない。
こういうのを見ると、タフに旅していた先輩方には申し訳ないが、やっぱ
「ネットっていいね!」
となってしまう。時代の変遷、おそるべしである。
(続く)