「苔むした庭に射す木漏れ日」それは光によって網膜に投影された像と「苔」、「庭」、「木漏れ日」といった言葉と意味が織り成す現(実存)在。
それらを瞬時に照合し、自らが「苔」、「庭」、「木漏れ日」を見ていなくとも間接的に経験できること。もしくは、第三者にイメージとして間接的に経験させること。そういった間接経験を知識として体系化し操る能力が自我なのかもしれません。
とかく、自我は順序性や論理性や客観性といった因果律に基づいて、すべての事象を客観的に理解し判断し行動しようとするような気がします。
一方で、光が網膜に投影された瞬間の感覚や知覚そのものは、自我が介在しない純粋経験として無意識の中に蓄積されるそうです。「その場の空気からみて、そうせざるを得なかった」と思わず口から出てしまう言葉の裏には、純粋経験としての無意識がそうさせているのかもしれません。
初稿 2014/05/13
校正 2021/02/01
写真 苔むした庭に射す木漏れ日
撮影 2014/02/02(奈良・唐招提寺)
それらを瞬時に照合し、自らが「苔」、「庭」、「木漏れ日」を見ていなくとも間接的に経験できること。もしくは、第三者にイメージとして間接的に経験させること。そういった間接経験を知識として体系化し操る能力が自我なのかもしれません。
とかく、自我は順序性や論理性や客観性といった因果律に基づいて、すべての事象を客観的に理解し判断し行動しようとするような気がします。
一方で、光が網膜に投影された瞬間の感覚や知覚そのものは、自我が介在しない純粋経験として無意識の中に蓄積されるそうです。「その場の空気からみて、そうせざるを得なかった」と思わず口から出てしまう言葉の裏には、純粋経験としての無意識がそうさせているのかもしれません。
初稿 2014/05/13
校正 2021/02/01
写真 苔むした庭に射す木漏れ日
撮影 2014/02/02(奈良・唐招提寺)