「秒速5センチメートル」が喪失した「自我」を再生へと導く序章であるのならば、「言の葉の庭」は喪失した「自我」と自らが切り捨ててきた「影」との対話のような気がします。
自らの在るべき姿であったり、自らが成りたいイメージが「自我」であるのならば、その実現のための惜しみない努力であったり、培った思考パターンが「意識」のような気がします。
一方で、「自我」を追求する過程で切り捨ててきた、ふさわしくない、こう成ってはならないイメージが「影」かもしれません。「自我」を喪失しそうなとき「意識」はなりをひそめ、「影」が頭をもたげるような気がします。
そんな「影」も「自我」も自らに他ならないと意識するとき、喪失した「自我」を取り戻して壁を乗り越えることができるのかもしれません。
追伸
映画で引用される柿本人麻呂の相聞歌に託されたのは、なにがあろうとも此処にいると詠うわたしを引き留めてくれる誰かが、ひょっとしたら自らの「影」のような気もしてきます。
「雷神(なるかみ)の 少し響(とよ)みて さし曇り 雨も降らぬか 君を留めむ」
「雷神(なるかみ)の 少し響(とよ)みて 降らずとも われは留らむ 妹し留めば」
(新海誠 監督作品, 2013)
初稿 2019/09/28
校正 2020/09/09(2021/12/12 追伸)
写真 根津美術館
撮影 2019/04/21(東京・南青山)
自らの在るべき姿であったり、自らが成りたいイメージが「自我」であるのならば、その実現のための惜しみない努力であったり、培った思考パターンが「意識」のような気がします。
一方で、「自我」を追求する過程で切り捨ててきた、ふさわしくない、こう成ってはならないイメージが「影」かもしれません。「自我」を喪失しそうなとき「意識」はなりをひそめ、「影」が頭をもたげるような気がします。
そんな「影」も「自我」も自らに他ならないと意識するとき、喪失した「自我」を取り戻して壁を乗り越えることができるのかもしれません。
追伸
映画で引用される柿本人麻呂の相聞歌に託されたのは、なにがあろうとも此処にいると詠うわたしを引き留めてくれる誰かが、ひょっとしたら自らの「影」のような気もしてきます。
「雷神(なるかみ)の 少し響(とよ)みて さし曇り 雨も降らぬか 君を留めむ」
「雷神(なるかみ)の 少し響(とよ)みて 降らずとも われは留らむ 妹し留めば」
(新海誠 監督作品, 2013)
初稿 2019/09/28
校正 2020/09/09(2021/12/12 追伸)
写真 根津美術館
撮影 2019/04/21(東京・南青山)