ヘッダ・ガーブレルという主人公は嫌な女なのですが、演じた俳優ルース・ウィルソンが魅力的だったのと、イーヴォ監督の演出がシャープでクリーンなためドロドロな雰囲気になりすぎず、悲劇が重く心に残らずに済みました。
舞台は、つい最近「東京芸術劇場」で見た「オセロー」のように、舞台の壁自体がむき出し?!と一見思うような壁で三方が囲まれていましたが、実はそれがセットで、
新婚で買った広いアパートだったのでした。
休憩の時に監督が「ロフトだったかもしれないし、未完成のアパートだったかも」と言ってましたが、白い真四角の空間にピアノとソファがあるだけ。
物語はそこでのみ展開し、ヘッダという女が自分以外に何の興味もなく、しかもその自分もそのアパートのように空っぽだということがとてもわかりやすかったです。
しかも大きな窓はいつもブラインドがかかっていて、ラストの演出に至ってはすっかり心を閉ざしたことが窓でも表現されていました。
もともとこのイプセンによる劇は1891年初演という、ヴィクトリアンな時代に書かれたものですので、ブルジョワの、将軍の娘が、しかも結婚したばかりで暇を持て余すのは珍しくもなんともないことだったでしょう。
幕間のインタビューで監督も、「時代劇のままでは自分も見たくない」と言ってましたが、今は家族が裕福な女性であっても、イギリス王室やアメリカのファーストレディのように世の中に出て何かを表現している世の中なので、ヘッダのように何もしない女性というのは、100年前ならいざ知らず、不満だらけで生きててもどこにも同情の余地はないと思えます。
ヘッダは善良で懸命に生きている夫や友人を軽蔑し、元恋人の足も引っ張って自分と同じ不幸に引きずり込もうとします。
そんなひどい女なのに、天真爛漫で美しいので憎めないキャラをよくルースは演じていました。シルクのスリップに黒いガウンを引っ掛けて時々黒いヒールの靴を履いてカッコよかったです。
なんとなくイギリスの白人女性で別に何も特別な才能や美貌がなくても家庭で姫育ちして、偉そうな人がいることを思い出しました。日本では男性にそういう人がいますね。西洋では反対に女性がなりがち。
ところで、今回の配役ではヘッダの夫で研究者のテスマン役の人がなかなかチャーミングだったのですが、ベネディクト・カンバーバッチも演じたことがあるのですよね。
実は私はそれで「ヘッダ・ガブラー」という劇を初めて知りました。ヘッダが愛してない研究にしか興味のない男に、ベネディクトさんぴったりだったろうなーっと想像してしまいました。
あと、ラストの方で効果的な仕事をするこれ、
スクリーンで見てジュースかと思ってたら、ブラッディマリーでした。
そうですよね。ジュースじゃあの場で理解不能でしたもの。