少し前に話題になり気になっていた本を、コメントをよく書いてくださっているhedghogさんにお借りして読むことができました。
実は私は中高校時代にはマンガ家になりたいと思ってたほどマンガが好きだったので、あっという間に読んでしまいました。
テーマである人間関係の話はもちろん人の「才能」について、考えるところがありました。
初めて気づいたことは、私は高校の時にマンガを2本商業誌に掲載してもらいながら、その後編集さんにネームを出しても良い評価もなく大学受験もあり編集部に「進学するまで休みます」と言ったっきり消滅した体験がトラウマになっていた事です。
要するに自分に才能がなかった結果であるとはわかっていたのですが、萩尾望都の子供時代からのマンガを読んだ量と描いた量がハンパないほど大量だとこの本で知りました。
私は中学生の時にクラスの子に「なんでうまく描けるの?」とベタにきかれた時に考えて「小学校低学年の頃はみんなお絵描きってするじゃない?でも大抵の子はそのうちやらなくなったんだけど、私は描くのが好きでずっと描いてるから何回も描いてるうちに描けるようになった」と答えました。
萩尾望都が学生時代から絵や構想を書き留めたクロッキーブックを10~20冊親に隠れて常備していたということを知り、私が中学の時に考えた説は真実だった!と思いました。
才能とは、描き続ける愛や情熱(エネルギー?)を注いだり出す魂の力なんだな、と。そういうものが私にはないな、と納得したらトラウマを客観的に見られるようになり溶け始めました。
それと親の問題。実はマンガから遠ざかっていた私をまた萩尾望都に引きつけた要因の一つに「親との関係」があります。
萩尾望都が成功してからもまだ「マンガは恥ずかしいもの、いつ辞めるのか」と母親にいい続けられ、お父さんからも認めてもらった記憶はないのに、実は実家の玄関に娘の著作をずらりと飾りお客さんに自慢していた心理が不明すぎる、と書いていました。
私も実家でマンガを描いて「食べていける人なんて本当に才能のある人だけ」と否定されたことしかないのに、私のまんがスクール投稿作が入賞して掲載されたら私の知らないところでそれを親戚の人に見せたり話していたと知った時のショックたるや・・・あれが親への不信感の第1歩でした。
私はその親のネガティブ刷り込みのせいで漫画家になれなかったのだとも少し思っていましたけど、萩尾望都はもっとひどい仕打ちを受けても描き続けて巨匠になっているので、やっぱり100%私の才能がなかったせいだったか、とスッキリしたわけです。
ところで今や大英博物館でも講演をされ、マンガ大使のような活躍をされてる方が、実はコミュ障の部分もある(感情が爆発するのを防ぐため黙ってしまうので自己弁護ができない)と知り、それも親から否定され抑圧をかけられた結果じゃないかなあと思うのです。聞いてもらえないと話す訓練がされませんから。
でも萩尾望都はマンガという表現手段を自分の力で手に入れたので、書き手と読者にとってはありがたい体験のみですが、描いてる人も生身の人間ならば生身の関係もあり、同業者という他人は同じ思考回路ではないので、生身は傷つく・・・
本書が個人的なことながら執筆された理由が後ろの方に書いてあります。つまり、本人が触れたくないことや人との企画を出版社など第3者から盛んなアプローチがあり断り続けるのが難しいほどの状態になり断る理由を提示したのです。
きっと賛否両論あるのでしょうけれど、ちょっと違うけど、人気→プレスの餌→犠牲者になってしまったダイアナ元英国皇太子妃のようにならず、自分を的確に表現出来る手段を持つ人は強いなあと思いました。ネットで誰でも自己表現できる時代に書籍という形でこんな強力な表現ができるとは。
傷ついた自己を癒すノウハウ、セラピー、カウンセリングなどには「許すことで自分の苦しみを手放す」というセオリーが出てくるんですけど、「許さない選択」があるお墨付きをもらったようなセラピー効果が私にはありました。
まったくの余談ですが、本書に出てくる映画「寄宿舎」「if もしも...」が70年代の少女マンガ家に影響を与えていたのは、よく考えればわかるけどあまり考えてませんでした。私にとっては順序が逆で、マンガを読んだ後にそのあたりの映画に出会ったので、「ああ、これが本物だ、萩尾望都みたいだ」という感想を持ちましたけど、本当にあの映画が作家たちをインスパイアしていたとは思いつかなかった。