「フランケンシュタイン」原作と劇のネタばれありますのでご注意。
原作小説とダニー・ボイル監督の劇「フランケンシュタイン」について、人間と神、科学と愛など哲学的なテーマの影で、原作者メアリーについて、執筆と彼女の妊娠、出産がほとんど同時だったことでちょっと妄想したことがありました。
やけにかっこいいと思ったら2012年のMary Shelleyという演劇のイメージ
ナショナル・シアターのパンフレットによると、メアリー・シェリーは18歳という若さで妊娠中にフランケンシュタインを執筆して出版社に入稿した5週間後に出産したとのことです。作品のテーマ「生命を造る」という発想は彼女自信の妊娠と無関係とは思えません。
メアリーの母親はフェミニスト、父親がアナーキスト哲学者という環境で、劇中でヴィクターのフィアンセであるエリザベスが言ったように当時女性は大学進学は禁止でしたが、メアリーは自宅で父親に教育を受け、夫や友人は詩人。つまり教養があり、女性の低い地位に疑問を持ち、インテリ男達(ただしアート系)に囲まれ、すごく進歩的で頭でっかちな知性では男と互角な女性だったはずです。が、哲学や文学を語り合っている男との子供を妊娠して、教養とは関係ない次元の自分の胎内に生き物が存在する体験をして、自分が動物であることも実感し、妊娠はしないで現実離れした夢を語る男達が現実の世界の主人公=神とすると、自分自身を神になろうとしてなれなかった「失楽園」の堕ちた天使のように感じたんじゃないか。あのクリーチャーはメアリー自身が「失楽園の天使」と示唆しているので、クリーチャーは実は彼女の分身でもあるんじゃないか。
研究に没頭し自分の世界に生きるヴィクターは詩人達にも重なりますが、実は、教養のある人間としてのメアリー自身がこちらにも投影されているようにも感じます。詩人の男を好きというあたりで、もう彼女が現実的な良妻賢母なんて夢見てなかったはず。雌のカンがするどいなら種の保存に適した実業家などの経済的に安全な男を選ぶと思う。彼女は内助の功より自分が世に認められたい人だったはず。
だからメアリーは頭はヴィクターで、心や身体はクリーチャー。
原作小説のラストは、死んだヴィクターを見届け自分の身体も滅ぼすことだけが幸せになれる道だと旅立って行くクリーチャーの後ろ姿で終わる。それはそれで美しいんですが、まさか彼女も発表200年後に、ヴィクターとクリーチャーがお互いに必須の存在となり半身ずつ一体化したかのように光の中に漕ぎ出して行く脚色が施されるとは期待していなかったでしょうね。(「失楽園」の堕ちた天使の長「ルシファー」は光をもたらす者という意味だそうで、劇のラストシーンはそれを意識しているかな。)
私も彼女の伝記を読んだわけではないので、経歴から妄想してこんなこと考えたのですが、両親がエキセントリックだっただけでなく、彼女の実の妹もバイロンの子供を産むなど、小説のようなティーネイジャー生活を送っていたのでメアリー・シェリーという演劇になったり、映画になったりしていたのですね。はて、どういう女性だったのか見てみないとな。「幻の城/バイロンとシェリー」はヒュー・グラント出てるけど見たような気もするけどまったく記憶にない。ケン・ラッセルの「ゴシック」も同じ。
原作小説とダニー・ボイル監督の劇「フランケンシュタイン」について、人間と神、科学と愛など哲学的なテーマの影で、原作者メアリーについて、執筆と彼女の妊娠、出産がほとんど同時だったことでちょっと妄想したことがありました。
やけにかっこいいと思ったら2012年のMary Shelleyという演劇のイメージ
ナショナル・シアターのパンフレットによると、メアリー・シェリーは18歳という若さで妊娠中にフランケンシュタインを執筆して出版社に入稿した5週間後に出産したとのことです。作品のテーマ「生命を造る」という発想は彼女自信の妊娠と無関係とは思えません。
メアリーの母親はフェミニスト、父親がアナーキスト哲学者という環境で、劇中でヴィクターのフィアンセであるエリザベスが言ったように当時女性は大学進学は禁止でしたが、メアリーは自宅で父親に教育を受け、夫や友人は詩人。つまり教養があり、女性の低い地位に疑問を持ち、インテリ男達(ただしアート系)に囲まれ、すごく進歩的で頭でっかちな知性では男と互角な女性だったはずです。が、哲学や文学を語り合っている男との子供を妊娠して、教養とは関係ない次元の自分の胎内に生き物が存在する体験をして、自分が動物であることも実感し、妊娠はしないで現実離れした夢を語る男達が現実の世界の主人公=神とすると、自分自身を神になろうとしてなれなかった「失楽園」の堕ちた天使のように感じたんじゃないか。あのクリーチャーはメアリー自身が「失楽園の天使」と示唆しているので、クリーチャーは実は彼女の分身でもあるんじゃないか。
研究に没頭し自分の世界に生きるヴィクターは詩人達にも重なりますが、実は、教養のある人間としてのメアリー自身がこちらにも投影されているようにも感じます。詩人の男を好きというあたりで、もう彼女が現実的な良妻賢母なんて夢見てなかったはず。雌のカンがするどいなら種の保存に適した実業家などの経済的に安全な男を選ぶと思う。彼女は内助の功より自分が世に認められたい人だったはず。
だからメアリーは頭はヴィクターで、心や身体はクリーチャー。
原作小説のラストは、死んだヴィクターを見届け自分の身体も滅ぼすことだけが幸せになれる道だと旅立って行くクリーチャーの後ろ姿で終わる。それはそれで美しいんですが、まさか彼女も発表200年後に、ヴィクターとクリーチャーがお互いに必須の存在となり半身ずつ一体化したかのように光の中に漕ぎ出して行く脚色が施されるとは期待していなかったでしょうね。(「失楽園」の堕ちた天使の長「ルシファー」は光をもたらす者という意味だそうで、劇のラストシーンはそれを意識しているかな。)
私も彼女の伝記を読んだわけではないので、経歴から妄想してこんなこと考えたのですが、両親がエキセントリックだっただけでなく、彼女の実の妹もバイロンの子供を産むなど、小説のようなティーネイジャー生活を送っていたのでメアリー・シェリーという演劇になったり、映画になったりしていたのですね。はて、どういう女性だったのか見てみないとな。「幻の城/バイロンとシェリー」はヒュー・グラント出てるけど見たような気もするけどまったく記憶にない。ケン・ラッセルの「ゴシック」も同じ。