HAKATA PARIS NEWYORK

いまのファッションを斬りまくる辛口コラム

服育の意味を考える。

2018-02-14 06:58:02 | Weblog
 これについては書かないといけないと思う。各メディアが先週から取り上げている東京銀座の小学校が今春から制服(標準服)にアルマーニ(デザイン監修、購入先は百貨店の松屋ギンザのようだ)を導入するということについてだ。

 問題の経緯は以下である。

 同校の制服はこれまで男子の場合は、上着、長袖シャツ、ズボン、帽子をそろえて1万7,755円、女子は1万9,277円だった。新しいものはおよそ2倍の約4万5,000円(基本セット)になる。ただ、これに長袖シャツ(ブラウス)、半袖シャツ(ブラウス)、ベスト、夏帽子、冬帽子、夏ソックス、冬ソックスを加えると、男子が8万244円、女子が9万5428円になり、これが「高すぎる」と論争に火がついたわけだ。

 小学校がある東京都の中央区にも苦情が寄せられたため、同区教委事務局の庶務課長が記者会見を開き、「標準服の変更は保護者や地域の方々の了解を得て進めるもの。校長には改めて説明するよう指導した」と話している。

 こうしたことから、泰明小学校の校長は、昨年の11月17日付で保護者に説明文を出している。それ(抜粋)によると、

 「銀座の街の学校として発展していくために、海外の有名ブランドの力を借りるのもひとつの方法かなと、泰明らしさの中に含まれてもいいのかなと発想しました」

 「バーバリー、シャネル、エルメスなどにもアプローチをしましたが、程合いの違いはあるが、受け止めてもらえなかったというのが結論です」

 「アルマーニ社だけが、思いを聞いて下さり、検討はしてみますが時間がかかります。お約束はできませんということで3年前から、遅い歩みではありますが話が進んでおりました」

 「また、視覚から受ける刺激による『ビジュアル・アイデンティティー』の育成は、これからの人材を育てることに不可欠である『服育』という重要な教育の一環であると考えています」

 「本校の保護者なら出せるのではないかと思いました。泰明小でなければこういう話は進めません。価格が高いという苦情があることを聞いており、個別に相談に応じていきたいです」


という内容だ。

 公立校での新制服の導入にこれだけのプロセスがあるのなら、やはり途中経過をPTAや保護者に説明すべきである。校長がそれをせずにほぼ独断専行で決めたことは、(アルマーニや松屋ギンザとの間で)「何かある」のではと、憶測を生んでもしょうがない。

 一方で、泰明小学校は銀座のど真ん中にあり、日本最初の煉瓦造りで開校当初は実にハイカラな学校だったと言われている。卒業生には評論家の北村透谷や作家の島崎藤村、政治家の近衛文麿、俳優の殿山泰司や加藤武、朝丘雪路らがいる。まさに由緒ある学校であるのは間違いない。

 ただ、本来の学区居住の児童が少なくなり、東京都は何とか伝統校を守るために、通学区域に関係なく希望により就学できるようにした。それが生徒割り当てで施設に余裕がある学校に対し、中央区が2009年度の入学者から実施した「特認校制度」だ。それでも泰明小学校の全児童数は335名で、1年生はたった58名しかいない。

 本来は都市部の居住人口の減少=過疎対策として生まれた制度だが、大衆を味方に付けたいメディアやネット民という外野が「アルマーニの制服を着る=銀座の小学校にわが子を通わせています」を親のステイタスと解釈。やっかみや嫉妬で報道や書き込みするから、論争というか炎上したに過ぎないのだ。

 親の立場からすれば、制服があった方が子どもの毎日の服装を考えてあげなくて良い。しかし、小学生と言えば、成長がいちばん激しい時期。制服だったら、1年でたちまち着れなくなってしまう可能性もある。保護者もそれは十分わかっている。それでも、わざわざ泰明小に通わせている親の経済力なら、9万円くらい何とも無いと思う。月割りにすれば8000円程度だし。

 報道に輪をかけて国が教育の無償化を掲げているのだから、貧困家庭が阻害されるようなことは、憲法違反に当たるなどと左巻きの意見も出てきている。だが、全く筋違いの論拠と思うので、ここで触れるつもりはない。

 むしろ、問題の本質は校長の説明の中にある。いちばんひっかかったのは、「視覚から受ける刺激による『ビジュアル・アイデンティティー』の育成は、これからの人材を育てることに不可欠である『服育』という重要な教育の一環であると考えている」の部分だ。

 ビジュアル・アイデンティティー(VI)や服育。校長ははたしてその意味を理解して言っているのか。甚だ疑問である。筆者がビジュアル・アイデンティティーの意味を知ったのは、今から30数年前。大学を卒業し業界で働き始めた頃で、日本経済はバブル景気に突入し始めていた時期だ。当時、雑誌のブレーンや宣伝会議、日経デザインなんかには頻繁にVIが登場しており、ロゴマークやシンボルマークといった図案の事を指していた。

 景気が良くなりかけていたので、うちの会社もそうだが、代理店はじめ、印刷会社までが、CI(コーポレートアイデンティティー)を飯のタネにしようとしていた。各企業の社名からロゴマーク、タグ、レターヘッドや封筒、名刺などまでのデザインを一新して社内の意識を統一し、顧客や株主などのステークホルダーに対し、企業のメッセージとブランドを伝えていくものとして、営業項目に登場していた。

 しかし、保守的な企業は、「だから、何なの」「そんなものをやって、売り上げにつながるのか」程度の意識だった。デザイナーが仕事をする前に、まず営業担当が企業側を説得するのに時間を要していたのだ。ある代理店の幹部は「クライアントが(CIの)予算を渋るんなら、せめてVIぐらいはさせたら」なんて、平気でクリエイティブ部局のスタッフに語っていた。当時はVIなんてそんな程度だったのである。

 企業ブランドやそれが発するメッセージが重要な昨今では、視覚に訴えるビジュアル力がカギを握るのは言うまでもない。問題は泰明小の校長が言う「視覚から受ける刺激によるVIの育成」って何なのかである。制服についたアルマーニのロゴマークに毎日触れる事が視覚面の感覚を研ぎ澄ますとでも言いたいのか。だとすれば、別にアルマーニでなくていいし、ましてお仕着せの制服ではそれが育まれるとは思えない。

 本当に子どもたちのことを考えるのなら、服装選びこそ自由にさせて上げた方がよほどアイデンティティー=独自性になる。今は早い子なら小学校の3〜4年生で「自我」に目覚めるのではないか。親に反抗するのはやっかいだが、服選びを自分でできるのは決して悪い事ではない。成長が早いのだから、値ごろな服を中心にいろんな選択肢の中から、選ばせてこそ、子どもはコーディネート術や色・素材合わせを賢く学習していく。


服に囲まれる環境が育てる


 そう考えると、校長が言うVIを一環とする「服育」についても、異論を唱えなくてはならない。校長は教育者であって、ファッションの専門家ではないのは、十分わかった上でだ。子どもが視覚を研ぎすまし、ファッション感覚を磨くには、制服であることがかえって逆効果だし、ブランドだろうが、アルマー二だろうが、あまり意味はない。

 ネットに書き込みをしている多くの諸兄が、「アルマーニ=バブリー」「今はダサい」と宣っている。所詮、アルマーニを知っていても、そんな認識でしかない。確かにアルマーニが旬だったのはバブル期の80年代後半である。ただ、そのクリエイティビティや美意識は、1975年のデビューから40年以上たった今でも何ら変わらない。

 アルマーニ自身も、「僕は何がなんでも自分のセンスを押し付ける独裁者にはなりたくない。モードは人を隷属させるものじゃない。服を着るという行為は、純粋な楽しみであり安らぎなんだ。自分らしさや自信をえるための、ひとつの方法に過ぎない」と語っている。これこそ、小学生にわかり易く説明してあげる方が大事ではないのか。

 第一、アルマーニの服から学習するなら、まず柔らかでこしがある生地やグレイッシュトーンの独特なカラーだ。次にソフトなワイドショルダーや細身のラペル、絞ったウエストといった構造美である。そして絶妙なカッティングでコントロールされた放縦な感覚。それらを学ばないと、何の意味もない。

 ただ、小学生に無理矢理に理解させる必要はないと思う。何となく、アルマーニの良さを感じる子も入れば、そうでない子もいる。それで十分だ。だから、服育にステイタスやブランドを持ち込むのは、もっと先の話である。本当の服育とは何か。筆者は子ども時代に身を置く環境の中で育まれていくものと考える。それを説明する上で筆者の小学生時代を振り返ってみたい。



 通ったのは福岡市立の奈良屋小学校。泰明小が銀座の伝統校なら、奈良屋小は博多を代表する学校である。有名人こそ輩出していないが、豪商神谷宗湛の邸宅跡に鉄筋コンクリート造りで建設され、戦前から水道や水洗トイレを完備したモダンな学校だった。だから、福岡大空襲にも堂々と持ちこたえている。

 ご多分に漏れず都心部の児童減少で、1998年に近隣の3校と一緒に統廃合になったが、立地が博多のランドマークにあるため、そのまま博多小学校として建て替わっている。新校歌「奇跡の扉」は元チューリップのドラマー、上田雅利氏の作詞作曲。同氏は奈良屋小の出身ではないが、一緒に統廃合された御供所小OBである。

 博多のど真ん中にあるため、中洲や天神は目と鼻の先で、アパレル問屋が集まる店屋町は、学校から歩いて4〜5分の位置にある。当然、クラスメートの8割程度が商売人や企業経営者の子息、息女だ。校区内の商業施設「博多リバレイン」が建つ前は、寿通や下川端通という商店街だった。ファッション専門店や生地屋、ボタン&副資材のお店も並んでおり、それらのほとんどが筆者の上下級生または同級生の親族が経営していた。

 ビギグループ被買収のコラムでも書いたが、1960年代のファッションは街のレディス専門店が引っ張っていた。それは博多でも変わらない。メーンはサロンブティックと言われる業態で、同級生の親が経営する店舗もあった。お店兼用の自宅に遊び行くと、1階にはフランスやイタリアの高級服が揃い、2階は輸入服地を集めたオーダーサロン。3階には若い縫子さんが何人かいて、せっせと仕立てていた。



 筆者の母親もオートクチュールの洋裁師で、別のブティックに出かけて仮縫いや縫製をしていたが、顧客は共通してお金持ちの中年女性に限られていた。ヤング向けはプリント柄なんかのスウィート感じの服ばかりで、手頃な価格でお洒落な既成服はほとんど出回っていなかった。だから、天神に勤める若いOLさんたちが国産服地と雑誌の切り抜きを持って、「こんな服を作って」と、直接うちまで注文にくることもあった。

 母親が忙しい時は、お使いにも行った。輸入服地の切れ端を何枚かもって、友人宅の材料店に行き、包みボタンを作ってもらう。店主の親父さんが打ち台に端布を置き、その上にシェルを重ねて押し棒で穴に入れて、バックパーツを押し込んで木槌で叩くとボタンができ上がる。子どもだから、好奇心で「自分にもやらせて欲しい」と言ったこともある。大概、失敗するのだが、親父さんは嫌な顔ひとつせず、器用に作り直してくれた。子どもの同級生で御得意さんだからか、いつも愛想良く作業するのが印象的だった。

 サロンブティックの倅も同級生だった。小学3年生くらいの時、彼の家に遊びにいくと、親父さんがミラノに仕入れに行ったついでに息子のためにパンツ(トラウザース)を買ってきていた。店頭で試着する様子を脇で見ていたが、店長を務める母親が商品についてスタッフを交えて説明していた。生地は多分コットンだったと思うが、色はミッドナイトブルーなのに光沢があり、光の当たる角度でが違った色に見えた。

 もちろん、親父さんは自分の息子のサイズも把握していたから、ジャストフィットだった。日本には決して売っていないような上質な商品で、その時の記憶は今でも鮮明に残っている。当時は1ドル=360円で、外貨の持ち出し額にも制限があった。彼の親父さんは「闇ドル」を隠し持って飛行機を乗り継ぎ、パリやミラノにインポートや服地の仕入れに行っていたという。そんな話をだいぶ後になって聞いた。

 そうこうしながら、博多で地道に高級ファッションの商売を続け、顧客を増やしていったのである。地元の名士でもあることから、奈良屋小のPTA会長なんかも務めていたが、決して自店の商品を同級生の親に売りつけることはなかった。因にこの親父さんは博多で初めて「ジョルジオ・アルマーニ」を販売した人物だ。それだけ、アルマーニ社からも信頼されていたのである。

 筆者はこんな環境の中で小学生時代を過ごした。当時、誰も「服育」なんて思ってもいなかったし、同級生の皆が同じような経験から学習したとは限らない。ただ、筆者はサラリーマン家庭で裕福とは言えないながらも、今の仕事にとって欠く事のできない服育を奈良屋小学校と周辺環境から受けたと、胸を張って言える。

 現在はスマートフォンを使えば、欲しいトレンド情報はたちどころに手に入る。どんな田舎でもコンビニがあるから、ファッション雑誌を立ち読みすれば、最新のアイテム写真を見ることは可能だ。それで刺激を受け、「自分もデザイナーになりたい」「スタイリストとして活躍したい」と、高校を卒業し都会に出ることは簡単だ。しかし、そこで本当の服育を受け、学び取ることができるのか。答えは否である。

 なぜなら、服育とはまさに服に育てられることで、自分が子ども時代にその世界や環境の中に身を置き服に触れてこそ刺激を受け、知らず知らずに学習していくのである。実家がブティックや縫製工場で商品に触れる。親が職人で生地や縫い方を見る。アパレル問屋の街で生まれ育ち、卸やバイイングの現場を知る等々。 山本耀司然り、川久保玲然りである。もちろん、それでプロになれるかは、別問題だ。

 だからこそ、お仕着せの制服や銀座だからブランドとの小理屈で、VIや服育を語るような底の薄さには閉口する。泰明小校長の教育者としてのレベルが知れるというものである。

 泰明小より東日本橋や馬喰町の小学生の方が、日頃からもっと服育を受けているかもしれない。改めて服について学ばせたいのなら、ブランドしか並ばない銀座より、地下鉄を乗り継いで台東区の旧小島小学校に遠足にでも出かけた方が得られるものは多いと思う。旧小島小では、「台東デザイナーズビレッジ」が運営されており、クリエーターの卵たちが孵化することを夢見て創作に励んでいる。小学生にとっても、年が近い若者から服や雑貨ができ上がるプロセスを学べる点で、はるかに収穫は多いはずである。

 バブル景気が崩壊し、セレクトショップが台頭するようになって、ファッション=ブランドという考えが一般的になってきたような気がする。それが今ではセレクト含めてチープな海外製品ばかりが流通するあまり、あたかも安く作って売れるシステムが真っ当であるかような論理がまかり通っている。

 しかし、結局は服を生み出すのに重要な染め、糸、一枚の布を疎かにするため、アパレルは青息吐息の状態に陥ってしまった。本来なら子どもたちがブランドではなく、その背景にある「もの作り」が何なのかを学ばなければ、本当の服育にはならないのである。アルマーニの制服を着た児童が10年後、20年後にどうなっているのか。その時が校長が言う服育の証しが明らかになる。さて、その時の成績はどうだろうか。

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