3月4日、朝6時7分発の東海道線を熱海乗継で、由比まで。
ここで降りて次の駅興津まで、旧東海道を歩きました。
この峠は安藤広重の東海道53次の富士の美しい絵の全くその場所と分ります。
吾輩の主たる目的は「歴史を旅する」です。
薩埵峠の戦い(第1回目、足利幕府草創期の戦いと、第2回目、戦国時代武田・後北条の戦いの2度行われた。そういう意味で、歴史の分岐点・要衝の地と言える。)
第1回目
1351年(観応2年)12月、駿河国薩埵峠(静岡県、JR由比駅と興津駅の中間)において、
足利尊氏軍と足利直義軍で行われた戦い。
足利幕府創設後、観応の擾乱 (軍事指揮権的・郎党的足利尊氏と統治制度的・法制官僚システム的足利直義が、それぞれそれを担ぐ党派に分裂し、足利幕府の路線選択の争いになった。)となり、
直義派は、上杉能憲が尊氏の執事高師直・高師泰兄弟を謀殺したが、対立はなお続く。
1351年(観応2年)直義は桃井直常・斯波高経・山名時氏をはじめ自派の武将を伴って京都を脱出し、北陸・信濃を経て鎌倉へ至る。
尊氏派は南朝と和睦して後村上天皇から足利直義・足利直冬追討令を得た上で、足利義詮を京都に残し、仁木頼章・仁木義長・畠山国清らを伴って東海道を鎌倉に向けて進む。直義派は、上杉憲顕・石塔義房・石塔頼房らの軍勢で西進。両軍は、東海道の難所・駿河国薩埵峠で合戦となる。
この合戦に勝利した尊氏派は、相模国早川尻などでも直義派を破り、翌1352年、直義は尊氏に降伏した。
鎌倉浄妙寺境内の延福寺に幽閉された直義は、2月26日に急死。病死とされているが、『太平記』は尊氏による毒殺であると記している。
ここで降りて次の駅興津まで、旧東海道を歩きました。
この峠は安藤広重の東海道53次の富士の美しい絵の全くその場所と分ります。
吾輩の主たる目的は「歴史を旅する」です。
薩埵峠の戦い(第1回目、足利幕府草創期の戦いと、第2回目、戦国時代武田・後北条の戦いの2度行われた。そういう意味で、歴史の分岐点・要衝の地と言える。)
第1回目
1351年(観応2年)12月、駿河国薩埵峠(静岡県、JR由比駅と興津駅の中間)において、
足利尊氏軍と足利直義軍で行われた戦い。
足利幕府創設後、観応の擾乱 (軍事指揮権的・郎党的足利尊氏と統治制度的・法制官僚システム的足利直義が、それぞれそれを担ぐ党派に分裂し、足利幕府の路線選択の争いになった。)となり、
直義派は、上杉能憲が尊氏の執事高師直・高師泰兄弟を謀殺したが、対立はなお続く。
1351年(観応2年)直義は桃井直常・斯波高経・山名時氏をはじめ自派の武将を伴って京都を脱出し、北陸・信濃を経て鎌倉へ至る。
尊氏派は南朝と和睦して後村上天皇から足利直義・足利直冬追討令を得た上で、足利義詮を京都に残し、仁木頼章・仁木義長・畠山国清らを伴って東海道を鎌倉に向けて進む。直義派は、上杉憲顕・石塔義房・石塔頼房らの軍勢で西進。両軍は、東海道の難所・駿河国薩埵峠で合戦となる。
この合戦に勝利した尊氏派は、相模国早川尻などでも直義派を破り、翌1352年、直義は尊氏に降伏した。
鎌倉浄妙寺境内の延福寺に幽閉された直義は、2月26日に急死。病死とされているが、『太平記』は尊氏による毒殺であると記している。