三内丸山遺跡は青森駅から7kmバスで35分、300円(新幹線新青森駅から2.5kmバスで10分)に位置する。
江戸時代から知られている遺跡で、平成4年から発掘調査では、縄文時代前期から中期の約5500年前から4000年前の、約1500年間にわたる大規模集落遺跡が発見された。この時期はフランスのラスコー洞窟壁画、英国のストーンヘンジ、クス王のピラミッド、モヘンジョダロのあった時代区分でもある。
竪穴住居跡、掘立柱建物跡、盛り土、石器・土器、骨角製品、木製品、それに大人墓、子供墓、道路跡などが出土した。
これらの分析の結果、三内丸山遺跡周辺には、栗や瓢箪、ゴボウ、豆などが栽培されていたことが分かり、
漆製品や縄文のポシェットも出て、縄文時代=移動・採取経済というイメージが覆された。
一般に縄文時代は13000年前から2300年前までぐらいの期間をいうのだが、この間は最後の氷河時代が終わり
太陽活動の活発化で温暖化したといわれる。
三内丸山遺跡の東北地方も、6000年前には海水の上昇と気温も平均2度cぐらい高かったが、その後いちじ気温低下、また4000年前には気温上昇、その後、丸山遺跡が消えるころは、気温が2度cぐらい低下していったと言われている。
こういう環境下で、先人は「ムラ」を作り、「縄文尺」と言われる共通規格を前提に、集落等を作り、
採集と、植栽と、漁労などで生きていたと考えられる。
青森県は遺跡の保存とともに、復元想像建物をたてて古代の生活様子を想像し、縄文時代の「ムラ」の様子を体験できる公園とし、かつ国の特別史跡と指定されている。
3月23日現在は春分の日を過ぎても1mぐらい雪が積もっており、なほ時々雪が降っていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/63/904b79f124d0f8e9ac555f3bfadf9885.jpg)
写真の縄文建物モニュメントだが、その説明文概要では、
1、6本の柱跡に直径1mぐらいの栗の大木の根元部分が埋まっていた。
2、その他の建物跡地から、1.4mの間隔の柱跡。「縄文尺」と思われる35cm基準単位とその倍数が読み取れる。
3、6本の柱跡は、それぞれ少し内側に傾斜をつけられており、そこから上部構造を結節していたと推定。
4、当時の日本で使用できた最大の栗の木の大きさが、このモニュメントの高さぐらい。
(この材料は現在日本にないのでロシアから持ってきたとか)
5、写真の建物の上部は屋根みたいな構造物があったかもしれないが、そもそもこの建物の目的がモニュメントとか見張り台とか
祭礼用の施設とか、いろいろ説があり現在決め手に欠くので、柱6本、3層構造にして、後世の研究を待つとしている。
江戸時代から知られている遺跡で、平成4年から発掘調査では、縄文時代前期から中期の約5500年前から4000年前の、約1500年間にわたる大規模集落遺跡が発見された。この時期はフランスのラスコー洞窟壁画、英国のストーンヘンジ、クス王のピラミッド、モヘンジョダロのあった時代区分でもある。
竪穴住居跡、掘立柱建物跡、盛り土、石器・土器、骨角製品、木製品、それに大人墓、子供墓、道路跡などが出土した。
これらの分析の結果、三内丸山遺跡周辺には、栗や瓢箪、ゴボウ、豆などが栽培されていたことが分かり、
漆製品や縄文のポシェットも出て、縄文時代=移動・採取経済というイメージが覆された。
一般に縄文時代は13000年前から2300年前までぐらいの期間をいうのだが、この間は最後の氷河時代が終わり
太陽活動の活発化で温暖化したといわれる。
三内丸山遺跡の東北地方も、6000年前には海水の上昇と気温も平均2度cぐらい高かったが、その後いちじ気温低下、また4000年前には気温上昇、その後、丸山遺跡が消えるころは、気温が2度cぐらい低下していったと言われている。
こういう環境下で、先人は「ムラ」を作り、「縄文尺」と言われる共通規格を前提に、集落等を作り、
採集と、植栽と、漁労などで生きていたと考えられる。
青森県は遺跡の保存とともに、復元想像建物をたてて古代の生活様子を想像し、縄文時代の「ムラ」の様子を体験できる公園とし、かつ国の特別史跡と指定されている。
3月23日現在は春分の日を過ぎても1mぐらい雪が積もっており、なほ時々雪が降っていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/63/904b79f124d0f8e9ac555f3bfadf9885.jpg)
写真の縄文建物モニュメントだが、その説明文概要では、
1、6本の柱跡に直径1mぐらいの栗の大木の根元部分が埋まっていた。
2、その他の建物跡地から、1.4mの間隔の柱跡。「縄文尺」と思われる35cm基準単位とその倍数が読み取れる。
3、6本の柱跡は、それぞれ少し内側に傾斜をつけられており、そこから上部構造を結節していたと推定。
4、当時の日本で使用できた最大の栗の木の大きさが、このモニュメントの高さぐらい。
(この材料は現在日本にないのでロシアから持ってきたとか)
5、写真の建物の上部は屋根みたいな構造物があったかもしれないが、そもそもこの建物の目的がモニュメントとか見張り台とか
祭礼用の施設とか、いろいろ説があり現在決め手に欠くので、柱6本、3層構造にして、後世の研究を待つとしている。