沖縄では、「援護金」の話が話題になると、ごく自然に次のような会話が交わされる。
「○○さんが貰っているのは本物の援護金だよ」
本物があるということは偽物の援護金があるのか。
こんな話も聞いた。
「○○さんのお父さんは戦前から片目が悪かったが、戦後は戦傷で目をやられたとして援護金をもらっていた」
おそらくこのような「偽」の援護金もごく普通に支払われていたのであろう。
それが、座間味島、渡嘉敷島のように集団自決が絡み、これに「軍命の有無」が問題になると話は更に複雑になってくる。
集団自決した人達は、それを軍命令による戦死ということにして、これまでに遺族一人当たり1億円以上の補償金が支払われている。http://www.jiyuu-shikan.org/tokushu5.html
「「軍命令」という嘘が早期に是正されなかったのは、遺族援護法の適用を受けるために厚生省への報告で隊長命令があったことにしたという事情のためであります。それによって国から半世紀にわたり、集団自決した遺族の方々に一人当たり1億円の年金が支払われてきました。」
石原昌家沖国大教授に調査によると、渡嘉敷島、座間味島では軍命に関係なくまた、戦闘参加者でなくとも多数の戦没者とされた者が補償金をもらっていることが判明している。
「現認証明」と称する無審査同様の他の住民の証明で次々と「偽の援護金」が支払われた。
「体験者の口は重く・・・沈黙した」といった証言記事が良くマスコミを飾るが、
「偽者」と「本物」の援護金の実態解明が歴史の真相解明のキーポイントになると思われる。
以下引用の記事は、係争中の裁判の「事件現場」ともいえる「日本軍本部壕」が63年を経過して初めて確認されたことを報道している。
証拠もないのに「関係者」のあやふやな証言のみで、梅澤隊長を「軍命をくだした男」と断罪した勢力。
63年前、今回発見されたこの壕で米軍の猛攻に耐えたこの裁判の原告の梅澤隊長。
真相解明の困難さを象徴するようなニュースである。
日本軍の本部と見られる壕の前に立つ宮村文子さん(右)と吉田春子さん=23日、座間味タカマタ
4カ所最長6メートル/住民ら、63年ぶり
沖縄戦で「集団自決(強制集団死)」が起こった座間味島で、日本軍の海上挺進第一戦隊が使ったと見られる壕跡群が二十三日までに見つかった。戦時中安全な場所を求め周辺の壕に隠れた宮村文子さん(82)=座間味村=らが六十三年ぶりに確認した。宮村さんや、近くまで登った山城功さん(75)=宜野湾市=は、奥行きが六メートル余りある最長のものが「本部壕ではないか」と証言している。(安里真己)
壕は座間味小中学校から東側のタカマタと呼ばれる丘陵部の急な斜面にあった計四カ所。
内部が確認できる三カ所は硬い地面を掘り、いずれも天井はアーチ状で、高さ百八十センチ弱、幅九十センチ程度。奥行きは一メートルほどのものから六メートル余りで内部は直線だった。ほかの一つは入り口がふさがっている。二つの壕は三メートルほど離れて並び、あと二カ所はさらに斜面をよじ登った位置にあり、入り口の前は平らな広場状。
座間味の戦争体験の聞き取りをしている沖縄女性史家の宮城晴美さんによると、日本軍の壕の周辺には地元の人が安全だと思い壕を掘ったが、米軍上陸前に危険だと日本兵に言われ別の場所に移動したという。
宮城さんは「日本軍の壕と住民の壕の位置関係がはっきりすれば、軍と民との関係がより明確に浮かび上がるのではないか」と話した。
当時壕の周囲は段々畑で戦後は焼け野原になっていたが、現在では木が生い茂って枯れ葉が積もっており壕の入り口まで、簡単に登れなくなっている。
宮村さんは、教科書検定問題などで「集団自決」が取り上げられ、昨年から長男らと壕の確認を始めた。今年春にも一度、捜しに来たが、方角を見失い、たどり着けなかったという。
この日、吉田春子さん(82)=座間味村=らと壕を確認した、宮村さんは「当時を知る人が少なくなっている。もっと早く確認するべきだったかもしれない」と話した。
山城さんは「ずっと未確認だったので発見されてよかった。記憶通りだった」と指摘。その上で「昨年の教科書問題以降、関心は高まっている。子や孫にきちんと事実を伝えていくためにも調査や整備をする必要がある」と話した。
◇
マスコミが報じる日本軍と住民は、加害者と被害者というお互い憎悪しあうに報じられるが、人目に触れることのないミニコミ誌に書かれた証言者達の随想には本音が書かれており、マスコミ報道とは逆であると書いた。
>宮城晴美さんによると、日本軍の壕の周辺には地元の人が安全だと思い壕を掘ったが、米軍上陸前に危険だと日本兵に言われ別の場所に移動したという。
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宮城晴美氏も指摘するように、米軍上陸を目前にして「兵隊さんが守ってくれる」と信じた住民は軍基地の近くに集まったが、「兵隊さん」は特攻が任務であったため迎撃の装備はしておらず、とても住民を守るような余裕もなく別の場所に移動させたり、追い返したりしたのが真相である。
とても自決命令を出して、武器弾薬を配布するような余裕などなかったというのが真相である。
なお壕を発見した宮村文子氏は座間味の集団自決を指導したとされる宮里盛秀助役の義理の妹で、戦後「援護金」の支給に奔走した村役場総務課長で宮里盛秀氏の実弟宮村幸延氏の妻である。
宮村氏は梅澤氏に「詫び状」を書いた人物である。
以下「援護法」と「特段の配慮」のカラクリより抜粋引用です。
慶良間島の「集団自決」に関しても,村役場の総務課が地元の窓口となり,
総務課長の宮村幸延氏が「援護法」の住民への適用のため奔走を始める。
「援護法」は講和条約発効直後の1952年7月に制定されたが、沖縄には1年遅れて適用が制定された。
■「軍命」の持つ意味の変化■
「集団自決」は、1952年(昭和27年)前後から、その持つ意味に変化が起き始める。
「集団自決」が軍命令であるという記述は1950年(昭和25年)に発刊された『鉄の暴風』に見られるが、
それまでの「軍命」は、「援護法」のための口裏あわせというより、
親族や縁者を手にかけた生存者が、遺族の糾弾や贖罪意識を逃れる為、「軍命でやむを得なかった」という言い訳のための「軍命」だった。
つまり心中で生き残った者が、死んだ相手や世間に対して言い訳するための「軍命」であった。
少なくとも、当時の座間味村助役の山城安次郎氏が、「渡嘉敷島の赤松の暴状」を訴えて沖縄タイムス大田記者の取材を受けた昭和25年前後には、
「集団自決」の「軍命」は援護法のためというより、むしろ死者へ対する贖罪意識のために必要だった。
ところが、琉球政府援護課や村役場の担当課が、厚生省援護課と交渉していく過程で「集団自決」の「軍命」は別の意味を持つようになる。
元来「援護法」は「復員処理」の目的があり、対象者は戦地での戦死者か外地からの引揚げ者で、しかも対象は軍人・軍属と限られていた。
そこで琉球政府援護課と村役場が、地上戦が行われ戦場となった沖縄に「特別の配慮」をするようにとの運動を展開する。
だがこれには問題が生じてきた。
たとえば、本土の場合、東京空襲や広島、長崎の原爆で死亡した一般市民の場合は援護法の対象にもならず、沖縄の一般住民に「特別の配慮」をした場合の齟齬が問題になったのだ。
日本政府は「政令」を連発するという非常手段でこれを乗り切った。
政令とは、行政府の命令のひとつで内閣が制定する成文法のことで、行政機関が制定する成文法である命令の中では優劣関係で最も高い位置づけになる。
日本政府は復員事務を処理する必要から、沖縄本島を中心とする南西諸島は政令で「戦地」と認定した。
元々軍人・軍属を対象にした「援護法」を沖縄の民間人に適用させるために政令を連発したが、それでも足りない場合は「援護法」の拡大解釈を行った。
一例を挙げると、地理に不案内な軍に道案内をした場合でも、結果的にその住民が戦死しておれば、「軍命」とされ「準軍属」扱いで遺族は年金の対象になった。
軍の命令というお墨付きが付けば「集団自決」は勿論のこと、他にも「食料供出」や「漁労勤務」という名目でも「準軍属」扱いとなった。
かくして、1983年には軍の命令が理解されるとは思われない0歳児から6歳までの幼児も「準軍属」扱いとされるようになる。
■宮村幸延総務課長の奔走■
座間味島の助役で、事実上「集団自決」を命令したとされる宮里盛秀氏の弟で、戦後村の総務課長として「援護法」の適用に奔走した宮村幸延氏は、この0歳児以下の適用に功績があったとして村で表彰されている。
ちなみに宮村氏は梅澤元隊長に「侘び状」を書いていながら「酔わされて書いた」として前言を翻した人物である。
また、昨年の法廷尋問のわずか一ヶ月前に証言して、宮城晴美氏の考えを変えた宮平春子氏は宮里盛秀、宮村幸延両氏の妹である。
「集団自決」に「軍命があった」ということは「事実の如何」を問わず、戦後の村にとっては、どうしても押し通せねばならぬ真実を超越した、必要欠くべからざる「証言」であった。
宮平春子氏の証言「動画」
⇒ 『日本軍の強制による集団自決 はあった!』証言2.3.4
◇
《 証言 座間味村遺族会長
昭和20年3月26日の集団自決は梅澤隊長の命令ではなく当時兵事主任(兼)村役場助役の宮里盛秀の命令で行われた。之は弟の宮村幸延が遺族補償のためやむを得ず隊長命令として申請した、ためのものであります
右 当時援護係 宮村幸延 捺印
梅澤裕 殿
昭和62年3月28日 》
(『沖縄戦「集団自決」の謎と真実』(秦郁彦編著 PHP研究所)より)
◇
この「侘び状」を自筆捺印して書いた宮村幸延氏は、後に「泥酔させられて書いた」ので記憶にない。従って無効であると主張し判決もその主張を認めた。
もしこの「侘び状」を有効と認めたら、援護係りの宮村氏は死んだと思われていた梅澤隊長の命令を、30数年間もの間偽造し、「公文書偽造」、「公金横領」を島ぐるみで行ったことを認めたことになる。
どんな理由を見つけてでもこの「侘び状」の内容を無効にする必要に迫られた宮村氏と村当局は、苦肉の策で「泥酔云々」と強弁し、それはめでたく判決で認められることになる。
同じく、この「侘び状」の存在で当初衝撃を受けた沖縄タイムスは、「侘び状の無効化」で座間味村当局と共同戦線を張る。
■水掛け論の決着には一枚の文書が・・・■
人間社会に争いは付き物である。 中でも「言った、言わない」の決着には、証言、証拠を準備せねばならず、一筋縄ではいかないのが世の常である。
一旦謝罪をしておきながら、後に都合が悪くなり前言を翻し、「謝罪した覚えがない」と開き直られると、「詫びた、詫びない」の水掛け論となる。
だが、そこに一枚の自筆捺印の「侘び状」があれば、水掛け論は一件落着する話である。
裁判の証拠物としても自筆捺印の書類が有効であることは論を待たない。
日本のお役所は書類重視主義である。
◇
■三位一体の公金横領■
さて、『渡嘉敷島「集団自決」の真相』の後書きの石川水穂氏の解説に話題が飛ぶ。
《また昭和六十二年三月、集団自決した助役の弟が梅沢氏に対し、「集団自決は兄の命令で行われた。私は遺族補償のため、やむを得ず、隊長命令として(旧厚生省に)申請した」と証言した。 (略)
後に、この問題に興味を持った私は平成十五年三月、中村教授とともに、厚生労働省援護課を訪ねた。担当者は「昭和三十二年の現地聞き取り調査で、軍命令によって集団自決したという裁定を下し、犠牲者全員を援護法の対象にした。最近、一部報道などで、軍命令がなかったという話も聞いているが、再調査はしない」と回答した。行政側がいったん下した決定を容易に変えようとしない日本の官僚の姿を思い知らされた。 》(『渡嘉敷島「集団自決」の真相』)
◇
■政府主導の「公金横領」■
当時の厚生省は「援護法」申請者に可能な限り許可を与えるため、度重なる政令を連発して軍命を暗示、誘導して申請書を書き換えさせた。
無謬性を誇るはずの官僚のこれらの措置は、今から考えれば違法性の疑いも充分考えられる強引な拡大解釈をしている。
違法性の疑のある「隊長命令添付」の申請書の存在を、無謬性を信じる厚労省が認めるはずは無い。
当然「そのような書類の存在は確認できない」といった官僚的言辞で、当該書類(軍の命令書付き申請書)の存在を事実上否定したのだろう。
研究者の調査によると、拡大解釈してでも何とか「援護法」申請を受理しようとした当時の厚生省は、「軍命があれば受理出来る」と何度も誘導の文書を村役所の担当者に送っているという。
■援護金業務での宮村幸延氏の功績■
座間味村役所の援護係・宮村幸延氏は、援護法の折衝のため何度か上京しており、その結果、軍の命令を聞き分けられないと判断される6歳未満児から0歳児でも、63年以降準軍属として確定することになったようである。
そしてそのときの宮村氏の努力は現在も座間味村役所に宮村氏の「功績」として記録に留められていると言う。
現在公式には厚生労省に「軍命を付した援護法の申請書」の存在はないということになっている。
当時の厚生省の「拡大解釈」は、拡大を通り超して「違法解釈」と言われても仕方がない。
つまり当時の厚生省の措置は、村役場と遺族を含む三者が口裏を合わせて公金を横領したと言われても仕方のない強引な処理である。
■宮村が「侘び状」を書いた理由■
元座間味村遺族会会長宮村幸延氏は、座間味島の自分が経営するペンションに訪ねてきた梅澤元戦隊長に「軍命を出した」と濡れ衣を着せたことを謝罪し、自筆捺印の「詫び状」を梅澤氏に書いた。
おそらくは『鉄の暴風』に死亡したと記述されていることを良いことに、援護担当の宮村氏は梅澤氏の署名捺印を偽造して厚生省に「命令書付き申請書」を提出していたのではないか。
そして、宮村氏は、死んだはずのお富さんならぬ梅澤さんが生きていると知って驚天動地の心境だったのではないか。
何しろ、梅澤氏の署名捺印を偽造していたとしたら、「公金横領」は厚生省の指導による共同責任だとしても、公文書偽造の個人責任はまぬかれない。
梅澤氏に対する「侘び状」は、そんな宮村氏の個人的な後ろめたさも加わって書いたのではなかったのか。
ところが、その後突然、「梅沢氏に無理やり泥酔させられて書いた」として前言を翻すことになる。
その態度豹変の裏には沖縄タイムスの強力な圧力が推測される。
■「侘び状」による沖縄タイムスの衝撃■
それには、その後の梅沢さんの行動から、宮村氏の心の動きは容易に推定できることである。
その時点(1987年)で、沖縄タイムは『鉄の暴風』の「梅澤死亡」の誤記を、口止め料を富村順一氏に払った上、人知れず削除している(1980年版から削除)。
ところが、梅澤さんが沖縄タイムスを訪問し、「侮辱的誤記」に関し謝罪を求めたため、事態は思わぬ方向へ進展していく。
梅澤さんは昭和63年(1988年)11月1日、沖縄タイムスで対応した新川明氏に「誤記」の謝罪を求め、宮村幸延氏の「侘び状」を見せる。
「軍命派」の総本山の沖縄タイムスとしては、「誤記」に対する謝罪要求に動揺はしたが、謝罪はともかく、軍命を否定した「侘び状」をそのまま是として受け入れるわけにはいかなかった。
沖縄タイムスは次のように考えた。
富村氏の恐喝による口止め料支払いは、万が一露見してもあくまで「誤記」という些細な問題であるが、梅澤氏の示した「詫び状」を沖縄タイムスが認めて、梅澤氏に謝罪文を書いたとしたら、戦後40年近く主張してきた『鉄の暴風』の歴史観が完全に覆ってしまう。
そうなれば沖縄タイムスの屋台骨を揺るがしかねない重大事件になる。
そこで、タイムスは確認の時間稼ぎのため次回の面談を約束し、座間味村当局に「侘び状」の件と村当局の「軍命の有無」についての公式見解を問いただす。
驚いたのは座間味村当局。 宮村幸延氏の「侘び状」をそのまま認めたら、村ぐるみで「公文書偽造」をして「公金横領」したことを公的に認めたことになる。
そこで苦労の結果考え出した結果はこうだった。
最初は「侘び状は偽物」と主張したが、本人の筆跡だと分かると急遽「泥酔させられて書いた記憶がない」という苦し紛れの弁解を考え付く。
沖縄タイムスの問い合わせが同年の11月3日なのに、座間味村の回答が半月も遅れた理由は「侘び状」の言い訳を考えるため、宮村氏と座間味村長宮里正太郎氏が四苦八苦したことが推測できる。
結局、同月18日付けの宮里村長の回答は「村当局が座間味島の集団自決は軍命令としている」と主張、沖縄タイムス史観を踏襲したので、新川明氏を安堵させることになる。
約10年前、富村順一氏に梅澤死亡の記事で恐喝された沖縄タイムスにとって、宮村氏の「侘び状」を座間味村当局が認めてしまったら、『鉄の暴風』の最重要テーマの「軍命説」が一気に崩壊してしまう絶体絶命の危機であった。
そこで、「公金横領」や「公文書偽造」で村の弱みを握る沖縄タイムスが座間味村当局に強い圧力を加えたことは容易に想像できる。
沖縄タイムスは社運をかけて宮村氏自筆の「侘び状」を無効化させるため、座間味村と宮村氏個人に圧力を加え、最終的には運命共同体として共同戦線を張ったのだ。
「泥酔して書かされた侘び状は無効だ」という口実で。
一方の梅澤氏は、その頃既に宮城初枝氏の「梅澤さんは命令していない」という証言を得ている上、宮村氏の「侘び状」まで持っている余裕からなのか、
座間味村や宮村氏を苦しい立場に追い込むことは避けたい様子が、タイムス訪問時の次の発言から垣間見ることが出来る。
「座間味の見解を撤回させられたら、それについてですね、タイムスのほうもまた検討するとおっしゃるが、わたしはそんなことはしません。あの人たちが、今、非常に心配だと思うが、村長さん、宮村幸延さん、立派な人ですよ。それから宮城初枝さん、私を救出してくれたわけですよ、結局ね。ですから、もう私は、この問題に関して一切やめます。もうタイムスとの間に、何のわだかまりも作りたくない。以上です。」(梅澤氏の沖縄タイムスでの発言)
その時、梅澤氏は後年宮城初枝氏の実の娘晴美氏が母の遺言を否定したり、「侘び状」を書いた宮村氏が前言を翻すなどとは夢想もせずに、このような余裕の発言をし、
村当局や宮村氏を窮地に追い込むくらいなら、沖縄タイムスとの謝罪交渉を打ち切っても良いといったニュアンスの発言をしている。
事実その後交渉は打ち切られている。
■厚生省の担当者に沖縄出身者を配属■
当時の厚生省は、校長など地域のリーダーがほとんど無条件に署名した現認証明書をそのまま受け付けるという極めて大雑把な審査をしていたという。
政府側は今から考えると違法性を問われかねない措置をしていたが、何とか沖縄側の申請に対応しやすいように、東京側の厚生省担当者にわざわざ沖縄出身者を配属して、出来るだけ援護法の適用の拡大を計った。
その当時東京側の厚生省担当に配属された沖縄出身者の証言が沖縄タイムスの2005年3月5日付朝刊に掲載されている。
< 沖縄戦の住民犠牲者が、援護法の対象となる「戦闘参加者」として、「該当」するか否か。最終的に決定したのは厚生省だ。その決定に携わっていたのが、沖縄県出身の祝嶺和子さん(77)=静岡県=だ。
一九八九年に厚生省を退職するまで、中国残留孤児問題を含めて、援護畑一筋に働いた。
沖縄戦当時、女子師範本科に在学していた。四五年三月、女師、一高女の学生が、看護隊として出陣する集合に、空襲に遭い、祝嶺さんは間に合わなかった。
大勢の同級生や後輩が「ひめゆり学徒」として、亡くなった。戦後、そのことは「ずっと、頭を離れることはなかった」という。
多くの友人を亡くし、生き残った元特攻隊員の祝嶺正献さん(故人)と結婚。沖縄から密航で日本本土へ渡った後、五四年、厚生省に入省した。
沖縄出身ということで「『沖縄のことをこれからやるからね、援護局につくられた沖縄班に来なさい』と上司に言われ、決まっていた配属先から異動させられた」。
前年から、米軍統治下の沖縄でも、軍人軍属に対して、日本の援護法適用が始まっていた。祝嶺さんの異動は、援護法の適用拡大に向けた動きだったようだ。
「援護では最初に、軍人軍属の、その次に沖縄では学徒たちも戦ったらしいな、ということで、私が引っ張られたのだと思う」
当時、沖縄班の人員は七、八人。祝嶺さん以外に、もう一人県出身で、後に国民年金課長を務めた比嘉新英さん(故人)がいた。
沖縄の市町村が受け付け、琉球政府を経由して、厚生省に送られる援護の申請資料。防衛隊など軍人軍属への申請書類に目を通していた同僚が、祝嶺さんに、尋ねた。
「普通のおじさんやおばさんも、軍のために働いたのか」
沖縄戦では、一般住民が、武器らしい武器もなく、米軍への切り込みを命じられ、日本軍のために弾薬を運び、「集団自決」を強いられた。・・・ (社会部・謝花直美) >
◇
「集団自決」は戦時中の特殊な状況の下で行われた事件であり、金城重明氏の例のように、たとえ他人の「自決」に手をかして、本人が生き残ったとしても現在の価値観や法律でこれを裁くことは出来ない。
同じように、実際には存在しない軍の命令を政府指導で捏造し、「援護金」と言う形の公金を横領したことも現在の価値観や法律で断罪できない。
ただ、これらの「犯罪」を事実上指導・誘導した当時の厚生省、そして現在の厚労省が先輩の行った「過誤」を認めるはずはない。
従って「捏造命令書付き申請書」の存在を認めるはずはない。
【おまけ】
政府が援護法認定のために、実際は存在してない「軍命令」を、「軍命令があった」と申請するように示唆した。
その「政府の書き換え指導」を調査した石原昌家沖国大教授の論文はこれ。
⇒政府が書き換え指導 援護法認定、「軍命」基準に