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【随想】
【※この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。偶々登場人物や出来事が類似していてもそれは偶然に過ぎない】
昭和20年8月。マッカーサー元帥は、コーンパイプの魔の煙をまき散らしながら厚木飛行場に降り立った。
そこで戦後日本の「英雄」として登場するのが「大宰相」吉田茂である。
吉田はこう言い残している。
「戦争に負けて、外交で勝った歴史がある」。
外交官出身でGHQと英語で意思疎通ができるという触れ込みでマッカーサーに接近し、外相に就任したのは吉田茂であった。 𠮷田を見たマッカーサーは「これは使える」と考えた。
■「GHQと対等に渡り合った男」
さて、沖縄の中学生たちが、マッカーサー元帥のコーンパイプの魔の煙に酔いしれて、敵の大将マッカーサーを尊敬の眼差しで仰ぎ見ていたころ、新たな日本の英雄がマスコミを賑わすようになった。
親英米主義者でイギリス大使を務めた𠮷田は戦時中、反戦主義者として投獄された。 ところがこの経歴がプラスに作用した。吉田はプライドだけを武器に、誰もが恐れた最高実力者マッカーサーと対等に渡り合う。少なくともマスコミには、次のように報じられた。
《吉田茂の功績、これを端的に表現するならば、やはりGHQによる占領時代をたくみな戦略で乗り切り、戦後日本の復興に大きく貢献した。》
■吉田茂の正体
吉田茂のことを米国追随の売国奴と罵倒する者がいる。 だが、概ね「名宰相」と褒め称える者が多数派だ。
マッカーサー代わり、マスコミに登場した「名宰相」吉田茂の実像はどうだったか。
■売国奴吉田茂
読書好きの格闘王、というより読書好きが嵩じて格闘王になったと言われる男、・・・日本戦後史に詳しい前田日明に言わせると、吉田茂・白洲次郎のことを売国奴と一蹴する。
格闘王前田の見立ては正しかった。「GHQと対等に渡り合った男」と言われた吉田だが、本当の姿は逆であった。
外務大臣時代には内閣の人選について、いちいちマッカーサーGHQ最高司令官の意向を確かめていたことが分かっている。
その平身低頭ぶりは首相に成ってからも変わらない。
もっとも吉田茂の英語はマッカーサーには通用せず、英国大使時代に知り合った遊学生白洲次郎を側近にしたのは通訳代わりにしたからだ。(ロンドンでは乞食でもキングスイングリッシュを使う)
𠮷田はマッカーサーの失脚後も、GHQ幹部へのおもねりは変わっていない。
マッカーサーの帰任後、実質№1の実力者となったGHQのG2部長(諜報部長)のウイロビーの元に足繁く通っていた。
但し、本人もそれが後ろ暗く、他の日本人には見せられない行動と十分に分かっていたようで、ウイロビーが暮らす帝国ホテル部屋を訪ねるときはホテルのエレベーターを使わず、非常階段を人知れず上がってウイロビーにお伺いを立ててていた。「名宰相」が、聞いてあきれる情けない話である。
さて、マッカーサーの帰任後、「マッカーサーの置土産」を受け継いだのは一体誰だったのか。
マッカーサーの虎の威を借りて、官僚政治の派閥造りを目論んでいた人物が吉田茂である。その後池田勇人、佐藤栄作、福田武夫、宮澤喜一など、官僚出身の派閥を作り、世に「吉田学校」と呼ばれていた。
その前に、先ず戦後日本の政党の歴史を洗ってみよう。
日本の戦後保守政党は、官僚の吉田茂率いる日本自由党、と戦前からの党人派政治家鳩山一郎(宇宙人由紀夫元首相の祖父)率いる民主党が対立していた。
この2大保守党に加えて、マッカーサーの「公職追放」の「言論の自由」の波に便乗して国民の人気を得たのが日本社会党である。
日本社会党とは労働組合と共産党が合体した革命党であり、日本をソ連のような革命による、共産化を目論んでいた。
そして1955年、これまで水と油のように対立していた吉田の自由党と鳩山の民主党が共闘を開始する。
保守合同、55年体制である。
つまり共産主義の日本社会党に日本革命を許すくらいなら、保守合同がまだ益しと考えた。
さて、ここで吉田茂について驚天動地の物語を披露せねばならない。
■吉田家のルーツは商社マン
外交官出身で、政治的人脈を持たない吉田茂のルーツが商社マンと聞くと、意外に思う人が多いだろう。
世に「悪徳」と名の付く職業は数多ある。遠くは「ベニスの商人」の悪徳金貸し、さらに「悪徳弁護士」「悪徳医師」「悪徳不動産屋」や「悪徳代官」等々枚挙にいとまがない。
だが、吉田茂の先祖ほど「悪徳」の名が相応しい商社が実在するとは聞いたことがない。
「悪徳」の名が最も相応しい商社の名とは、「アヘン戦争」を中国に仕掛け、その代価として香港・上海を「植民地」として強奪した悪徳商社・ジャーデン・マテソンのことだ。
「泥棒にも三分の理」といわれるが、縄張りを主張するヤクザですらも「氷」「おしぼり」等一応形のある物を売りつけた。ところが悪徳商社・ジャーデン・マテソンは売りつけたアヘンが相手の健康を蝕む。 そしてそれに異を唱えると暴力で植民地にしてしまう。これ以上の悪徳はない。
その悪徳商社ジャーデン・マセソンの横浜支店長が吉田茂の義父というから、まさに「人を喰った話」である。(【おまけ】参照)
では、教科書で習ったアヘン戦戦争の概略を述べてみよう。
■アヘン戦争
アヘン戦争とは1840年、アヘン密貿易をめぐって行われたイギリスの中国に対する侵略戦争のこと。
イギリスは清朝政府の中毒性のあるアヘン投棄に抗議して開戦に踏み切り、強力な軍事力で勝利した。
その結果、1842年に南京条約を締結、香港の割譲などの権益を得た。
ヨーロッパ勢力によるアジア植民地の第1歩となった。
イギリスの手によって密輸入されるアヘン(阿片)の害が広がり、銀の流出も増大しているところから、1839年、清朝政府は林則徐を欽差大臣に任命。 全権大使してとして広東に派遣した。
赴任した林則徐は、吸飲者・販売者への死刑の執行を宣言し、イギリス商人に対し期限付きでアヘンの引き渡しを要求した。それが履行されないので貿易停止、商館閉鎖の強硬手段に出て、アヘン2万箱を押収し、焼却した。
同じ時、イギリス人水兵による中国人殴殺事件が起こり、林則徐は犯人引き渡しを要求したが、イギリスが応じず、再び武力に訴える強硬手段に出た。
傍若無人のアヘン戦争に対し、イギリス議会における戦争反対論が巻き起こった。
アヘンはイギリス国内でも麻酔薬として利用されていたが、イギリス政府と東インド会社がインドで大々的にアヘンを栽培し、それをを中国に輸出していることは公にされていなかった。
議員の中には有害なアヘンを中国に密輸することは人道上問題であるとして軍隊派遣に反対論が広がった。
反対派グラッドストン議員のの反対演説を紹介しよう。
(引用)その起源においてこれほど正義に反し、この国を恒久的な不名誉の下に置き続けることになる戦争をわたくしは知らないし、これまで聞いたこともないと、明言できる。反対意見の議員は、昨夜広東で栄光のうちに翻るイギリス国旗とその国旗が地球上のどこにおいても侮辱されることはないと知ることで鼓舞されるわれらが兵士たちの精神について雄弁に話された。幾多の危機的状況のなかでイギリス国旗が戦場に掲げられているときイギリス臣民の精神が鼓舞されてきたことをわれわれは誰でも知っている。だが、そもそもイギリス国旗がイギリス人の精神をいつも高めることになるのはどうしてであろうか。それはイギリス国旗が常に正義の大義、圧政への反対、国民の諸権利の尊重、名誉ある通商の事業に結びついていたからこそであった。ところがいまやその国旗は高貴な閣下の庇護の下で、悪名高い密貿易を保護するために掲げられているのである。(中略)
…………わたくしは、女王陛下の政府が本動議に関して本院にこの正義に反した、邪悪な戦争を教唆するよう説得することなど決してないと確信する。わたくしはアヘン貿易をどれだけ激しく弾劾しようと何の躊躇も感じない。同様な憤激をもってアヘン戦争を弾劾するのに何の躊躇も感じることはない。<歴史学研究会編『世界史史料6』岩波書店 p.149>
これは1840年4月8日、イギリス下院におけるグラッドストンの演説の一部である。グラッドストンはアヘンの密貿易を清朝に認めさせるための戦争は、イギリスが掲げてきた正義のための戦争という大義に反することだ、として反対した。
■パーマーストン外相の論理
翌日外務大臣のパーマーストンは、清朝政府がアヘン密貿易を取り締まるのは国民を道徳的退化から守ろるためではなく、銀の流出を防ぎたいという利害の保護のためにすぎない、そのためにイギリスの通商業者が危機に瀕している以上、武力行使はやむを得ないと反論した。パーマーストンは演説の最後をこう結んでいる。
(引用)武力の示威が、さらなる流血を引き起こすことなしに、われわれの通商関係を再興するという願わしい結果をもたらすかもしれないと、すでに表明されている。このことにわたしも心から同意するものである。<『同上書』 p.150>
若きグラッドストンの雄弁は正義感にあふれたものであったが、結局戦争反対の動議は9票差で否決された。パーマーストンの「武力の示威」は、心配されたように「さらなる流血」を引きおこすことになるが、此処で示された通商の利益を守る」ための武力行使という「砲艦外交」の論理は、この後の帝国主義諸国がくりかえすことになる。
■アヘン戦争の意味
イギリス(パーマーストン外相)は、焼却されたアヘンの賠償を要求、それを清朝(道光帝)が拒否すると、両者は1840年、戦争に突入した。このユーラシア大陸の西端からはずれた海上帝国イギリスと、大陸の東の広大な領土を持つ専制国家清帝国の戦いは、近代におけるヨーロッパを主導する国とアジアの大国が初めて戦火を交えた戦争であるが、アヘン問題が発端となったためアヘン戦争と言われている。
なぜか英中戦争とか中英戦争とかかは言われない。というのも両国の軍事力は対等とはほど遠い格差があり、戦場は中国沿岸にかぎられ、イギリスが一方的に攻め立てることとなった、近代的な意味での戦争とは言えない出来事だった。しかし、アヘン戦争は中国近代史の不幸な出発点となったばかりでなく、ひいてはアジア全体のその後に余りにも大きな影響を与えた歴史的な転換点となる戦争、いや侵略事件ではあった。
※2020年、香港の民主化運動が高揚したことに対して、中国習近平政権は香港国家安全維持法を制定、弾圧を強めていることが世界、日本でも関心を呼んでいる。忘れてはいけないのは、香港問題の出発点が、そのイギリス植民地化の契機となったアヘン戦争であることだ。<2020/7/31記>
★
東京で商社勤務の経験のある者なら、新入社員の社員教育の一環として、横浜にある英一番館というレンガ造りの古風な建物を見学に行った経験があるだろう。
1840年、アヘン密貿易をめぐって行われたイギリスの中国に対する侵略戦争。イギリスは清朝政府のアヘン投棄に抗議して開戦に踏み切り、勝利することによって1842年に南京条約を締結、香港の割譲などの権益を得た。ヨーロッパ勢力によるアジア植民地の第1歩となった。
イギリスの手によって密輸入されるアヘン(阿片)の害が広がり、銀の流出も増大しているところから、1839年、清朝政府は林則徐を欽差大臣に任命してとして広東に派遣した。赴任した林則徐は、吸飲者・販売者への死刑の執行を宣言し、イギリス商人に対し期限付きでアヘンの引き渡しを要求した。それが履行されないので貿易停止、商館閉鎖の強硬手段に出て、アヘン2万箱を押収し、焼却した。同じ時、イギリス人水兵による中国人殴殺事件が起こり、林則徐は犯人引き渡しを要求したが、イギリスが応じず、再び強硬手段に出た。
イギリス議会における戦争反対論
19世紀、ウィーン体制下のイギリスでは、産業資本家の台頭によって自由貿易主義の時代に入っており、中国という巨大な市場を獲得し、あわせてイギリスのインド植民地支配を安定させたいという国家欲求があった。1837年に始まったヴィクトリア朝のもと、ホィッグ党メルバーン内閣のパーマーストン外相によって、自由貿易主義の拡大を目指す外交政策が推進された。その中で問題となってきたのが、中国とのアヘン貿易であった。
アヘンはイギリス国内でも麻酔薬として利用されていたが、同時に中毒性のある有害なものであるという認識もあった。しかし、議員や市民はその実態を知らなかった。清朝がアヘンを没収して焼却したことに対し、それは非人道的な密輸品であったにもかかわらず、イギリス政府と商人は自分たちの「財産」に対する侵害であるから、正当に賠償を請求することが出来ると主張した。しかい9票差で可決、政府が開戦に踏み切り海軍を派遣する段になって、軍隊派遣は議会の承認を必要とするので、初めて問題が表面化した。議員の中には有害なアヘンを中国に密輸することは人道上問題であるとして軍隊派遣に反対論が広がった。ホィッグ党メルバーン政権のパーマーストン外相の開戦案に対して、議会ではグラッドストンなどの反対論も活発であったので紛糾したが、採決の結果、賛成271、反対262のわずか9票差で、軍隊派遣が可決されたのだった。
※2020年、香港の民主化運動が高揚したことに対して、中国習近平政権は香港国家安全維持法を制定、弾圧を強めていることが世界、日本でも関心を呼んでいる。忘れてはいけないのは、香港問題の出発点が、そのイギリス植民地化の契機となったアヘン戦争であることだ。<2020/7/31記>
【おまけ】
歴代総理の胆力「吉田茂」(2)長寿の秘訣は「人を食っている」
政界を引退した吉田は、かつての「ワンマン宰相」を引きずるように、生臭さは健在であった。
敷地1万1千坪。その名も自ら“命名”した「海千山千楼」の神奈川県大磯の邸宅に昭和16年に雪子夫人を亡くして以来、吉田の身の回りの世話をし続けてきた東京の花柳界・新橋の元芸妓「小りん」と、改めて生活を共にした。吉田は子供の頃、いまの計算で30億円ほどの養父の遺産を受け継ぎ、そのほとんどを花柳界で使い切ってしまったというエピソードを残している。人に頼らず自分のカネで遊ぶ吉田はモテモテだったそうで、「小りん」とは、そうした中での仲だったのである。
一方で、政界への影響力も保持、政変のたびに自民党の有力者が、陰に陽に次々と足を運んだものであった。これは「大磯詣で」と言われ、「吉田の政界リモート・コントロール」との声もあった。また、時の政権の要請があれば、欧米、東南アジアなどに「政府特使」として精力的に歴訪もした。時には「日台関係」改善のため個人の資格で訪台、蒋介石と会談しては、中国から批判の声が出たものの、ケロリだったのである。
ちなみに、吉田は部下の中からその後の「保守本流」の人材を輩出させた。のちに総理の座に就くことになる池田勇人、佐藤栄作、田中角栄らは、吉田の敷いた戦後再建へのレールを走り、国づくりの中核的存在になったのは知られているところである。
そうした一方で、私邸での吉田の日常は孤高にして貴族趣味の、悠々自適のそれであった。
「日本の新聞はウソを書く」とハナからバカにして読まず、定期購読として取り寄せていた英紙「ロンドン・タイムズ」を愛読、小説も英国のユーモア小説を原書で読んでいた。好物の葉巻は1日7、8本を欠かさず、食事も晩年まで1日1回のビーフ・ステーキとともに、ウイスキーをたのしんだのだった。
政権を降りて13年目の昭和42(1967)年10月20日、心筋梗塞のため89歳で死去。死の直前、洗礼を受け、「ヨゼフ・トマス・モア・ヨシダシゲル」となった。10月31日の日本武道館における戦後初の国葬には、多くの一般国民を含めて3500人が献花をしたものだった。国民の人気の高さが知れた。亡くなる数年前、長寿の秘訣を聞かれた吉田いわく、「まぁ、人を食っているから」ということであった。
これは、人の好き嫌い激しく、独断専行、頑固、時に傲岸不遜への批判は付いて回ったが、一方で陽気、稚気たっぷり、“ユーモリスト吉田”の面目躍如の言葉でもあった。陰気なリーダーに、人気が沸騰した試しがない。性格の明るさ、稚気、ユーモアは、しばしばリーダーの欠点を補う「3要因」となることを吉田は示している。
【おまけ】
12月20日発売の月刊willに『沖縄「集団自決」の大ウソ』が掲載されました。
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