狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

大田昌秀「集団自決写真」の噓

2012-05-03 06:33:42 | 県知事選

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本日の沖縄タイムスの一面トップは6月10日に投開票される県議選をにらんで、立候補予定者63人に対し、お得意のアンケート調査をやった結果大きく掲載。 改憲問題や歴史問題で保守系候補者に脅しをかける何時もの姿勢を示している。

■一面トップ

本紙アンケート

護憲27人 改憲20人

9条改正反対41人65%

■2、3面トップ

県内移設に反対87%

軍強制「あった」65%

「集団自決」否定は2

そもそも「集団自決」のような歴史問題をアンケートしてその結果を発表すること自体がおかしい。

それに「集団自決」に反対、と印象操作をしているが反対している候補者は「集団自決は軍命」に反対しているわけで、「集団自決」の存在そのものに反対しているわけではない。 沖縄タイムスの歴史観と異なる歴史観の候補者は、このようにアンケートの段階で印象操作でされてしまう。

ただネットの普及した昨今、沖縄2紙の旧態依然のアンケート調査で騙される読者は少ない。

何度もいうがこのような姑息な誤誘導に乗せられるほど読者はバカではないのだ。

それは、宜野湾市長選挙における伊波前市長の敗退に象徴的に表われているではないか。

ここで保守系候補者にも強く言っておきたい。

流れは変わりつつ、いや、変わった。

これまでのように沖縄2紙の顔色を見ながらのなんちゃって保守では有権者に見放される。

真正面から憲法論議をしたら、改憲に同意する県民は圧倒的多数である。

先日の「朝生」を見て、大田元県知事や糸数慶子参議院議員、そして前泊沖国大教授などの沖縄左翼がいかに大嘘をついて県民を騙してきたが納得した県民は多かったはずだ。

            ☆

沖縄で出版される沖縄戦関連の書籍は、書店に特設コーナーを設けるほど数多いが、沖縄戦を少しでも検証した人が読めば、あまりにも事実の歪曲、捏造が多いことに気がつく。調査不足や勘違いによる事実誤認ならともかく、著者のイデオロギーを押し通すため、意図的に事実を歪曲、捏造した例は目を覆うほどだ。沖縄タイムス刊の『鉄の暴風』が嘘にまみれた伝聞記であることは今では旧聞に属するが、沖縄戦記の代表的書き手である大田昌秀元県知事の出版物から歪曲・捏造の記述を拾い出すと、それだけでも数冊の本が出来るくらいだ。

雑誌『WILL』に掲載された大田元知事の嘘を以下に全文紹介する。 

 大田昌秀 「集団自決写真」の噓

                               鴨野 守著

「鉄の雨」とも称される米軍の凄まじい艦砲射撃で、地形が変わったとまで言われる沖縄戦。「ありったけの地獄」と形容された沖縄戦を象徴する写真が何点かある。そのなかの一つが、沖縄を代表する著名人の手で改かいざん竄されていた。本稿はその事実をはじめて明らかにするものである。

 野原に叩きつけられたようにして横たわる婦女子。その顔や腕、手足は血にまみれている。鎌、やかん、草履が散乱するなかに折り重なって人が倒れている。草に隠れた犠牲者

も含めれば、住民の数は十人ほどか。

まさに「無残な最期」の場面である。この写真は、戦後六十余年が過ぎてなお社会問題となり、軍命令の有無をめぐって法廷でも論争となった「集団自決」の現場の記録として、広く知られている。

 これをはじめて「手榴弾による集団自決」として、琉球新報社発行の写真記録『これが沖縄戦だ』で紹介したのが、大田昌秀元沖縄県知事である。

 一九二五年、沖縄生まれの大田氏は四五年三月、沖縄師範学校在学中に、鉄てつけつきんのうたい血勤皇隊の一員として沖縄戦を戦った。戦後は早稲田大学を卒業したあと、アメリカに留学。ジャーナリズム研究を進めるなか、一九七六年から七七年はじめにかけて、米国防総省で膨大な数の沖縄戦関係の写真を発見し、正式な手続きを経て一千数百点を沖縄に持ち帰った。

 これを整理したものが、地元の球新報』紙上に一九七七年三月二十八日付から百二十九回にわたり、「これが沖縄戦だ」として連載された。同年九月七日には単行本化さ

れ、那覇出版社から発売された。

 この本を見ると、上記の写真は見開きで掲載されていることから、同著の目玉であることがわかる。だが、筆者が沖縄県立図書館で調べたところ、『琉球新報』の連載には、この衝撃写真は掲載されていなかった。「スクープ」とも言える写真を新聞に掲載せず、連載が終わってからまとめた写真集に掲載したのはなぜなのか。

 理由は定かでないが、気になる箇所があった。それは、掲載時の写真説明である。「米軍の説明では、本島南端で砲撃による死とあるが、あきらかに手榴弾による集団自決とみられる(六月二十一日)」

 写真は、米軍の従軍カメラマンが撮影したものだ。キャプションも当然、カメラマンが付ける。いつ、どこで撮り、どのような場面だったかは、撮影者の記録が一番、信頼が置

ける。

 そのカメラマンが「本島南端で砲撃による死」とした写真説明を、著者の大田氏は「あきらかに手榴弾による集団自決とみられる」と強引に変えているのである。

 ここに、大田氏の悪意が透けて見える。「あきらかに手榴弾による集団自決とみられる」という一文は、日本語としておかしい。「あきらかに」とはじまるのであれば、末尾は「集団自決である」と言い切るのが自然だ。しかし大田氏は、集団自決であると断定できる根拠を持っていなかった。そこで、「集団自決とみられる」と曖昧な表現でぼかしたのであろう。

 致命的なミスがもう一つある。写真に写っている遺体を見てほしい。

 これが「あきらかに手榴弾による」ものだろうか。手榴弾が炸裂したのであれば、遺体の一部が激しく損傷しているか、またはバラバラになる可能性もある。ところが、写真の遺体にそのような痕跡は見当たらない。鉄血勤皇隊の一員として沖縄戦に参加した経験を持つ大田氏ならば、そんなことは百も承知のはずだ。

 それでもなお大田氏は、この写真を悲惨な集団自決を裏付ける証拠として取り上げたかったのであろう。なぜならば、大田氏の意図は、年を追うごとに大田氏自らの手で次第に露骨になっていくからである。同写真の説明文を時系列で紹介していこう。

 ①写真記録『これが沖縄戦だ』(一九七七年九月七日発行)

 編集・大田昌秀/発行・琉球新報社/発売・那覇出版社「米軍の説明では、本島南端で砲撃による死とあるが、あきらかに手榴弾による集団自決とみられる(六月二十一日)」

 ②『戦争と子ども 父より戦争を知らない子たちへ』(一九八〇年三月三日発行)著者・大田昌秀/発行・那覇出版社「沖縄では、平和時にはとうてい考えることさえできない住民の「集団自決」が決行された(一九四五年三月)」

 ③『総史沖縄戦』(一九八二年八月十日発行)編著・大田昌秀/発行・岩波書店「慶良間列島における住民の集団自決(米軍の説明では本島南端での砲撃による死とある)」

 ④写真記録『これが沖縄戦だ』改訂版(一九八三年十二月十日改訂一刷)編著・大田昌秀/発行・琉球新報社/発売・那覇出版社「手榴弾による集団自決(米軍の説明では、本島南部での砲撃による死とある)」

ここで注目してもらいたいのは、単行本『これが沖縄戦だ』の初版と改訂版とでは、写真説明が逆転していることだ。連載直後の初版本で後半部に置かれていた「手榴弾による集団自決」の記述を、同改訂版は冒頭に持ってきている。

 しかも、同改訂版からは、撮影の日付(六月二十一日)が削除されている。

 渡嘉敷・座間味島の集団自決は、米軍が沖縄本島に上陸する前の三月下旬に起きている。この写真を集団自決と結びつけようとすれば、六月二十一日の日付は邪魔であり、それを入れると信憑性が疑われることになる。だから削除したものと筆者は考える。

 改訂版には、仲宗根政善琉球大学名誉教授が「極めて正確な数字を明示して、簡潔にまとめ、生々しい写真を添えて、真にせまる。後世に残る貴重な沖縄戦史である」と称賛の言葉を寄せ、「集団自決をした慶良間の住民に、軍はどれほどの配慮をしていたのか。大田氏は、集団自決の惨状の写真は、目をおおわしめ、ここにのせるにしのびないと記している」と紹介している。

 だが大田氏は、「集団自決の惨状の写真は、ここにのせるにしのびない」などと言いながら、その後も、自らの著作物でためらいもなく発表していくのである。

 ⑤The Battle of Okinawa, The Typhoonof Steel and Bombs, By MasahideOta, 一九八四年 久米書店“MASS SUICIDE”, OF WOMENAND CHILDREN

Morbidly afraid of being capturedby Americans as a result of intensiveJapanese military propaganda, manycivilians chose suicide with hand grenades,knives and whatever weaponsavailable.

「〝女性と子供の集団自殺〟日本軍による徹底的なプロパガンダによって米軍に捕らえられることを異常に恐れた民間人の多くは、手榴弾やナイフなど手に入るあらゆる武器を使って自殺することを選んだ」

 ⑥『沖縄戦とは何か』(一九八五年四月五日発行)著者・大田昌秀/発行・中村久米

雄「手榴弾による住民の集団自決(米軍の説明では、本島南部において砲撃を受けたため、とある)」

 ⑦『語りつぐ沖縄戦 珊瑚の島燃えて』(一九八八年六月二十三日発行)編集・「語りつぐ沖縄戦 珊瑚の島燃えて」編集委員会/監修・大田昌秀/発行・沖縄県学校用品株式会社「慶良間諸島における住民の悲劇(手りゅう弾による「集団自決」と考えられる)」

 ⑧『大田昌秀「平和」を語る』(一九九〇年六月十五日発行)著者・大田昌秀/発行:公正・公平で心ゆたかな文化県政をつくる県民の会「住民の集団自決か」

 ⑨『人間が人間でなくなるとき』(一九九一年九月七日発行)著者・大田昌秀/発行・沖縄タイムス社「米軍の捕虜になるのを恐れて、集団自決した民間婦女子たち(一九四五

年六月二十一日)」

 ⑩『沖縄決戦 太平洋戦争最後の激戦と沖縄県民の戦い(歴史群像)』(二〇〇五年四月一日発行)発行・学習研究社/写真協力者氏名の冒頭に大田昌秀氏「六月二十一日撮影の慶良間のある洞窟内。米軍の記録では『攻撃から逃れようとして弾丸に倒れた非戦闘員』

とあるが、集団自決の現場のように見える。生きることを自ら放棄せざるを得なかった住民の絶望は、いかばかりであったろう。大田昌秀氏提供(『総史沖縄戦』より)」『沖縄決戦』の写真説明など、滅茶苦茶である。前述したように、慶良間諸島での集団自決は三月下旬のことである。それを「六月二十一日撮影の慶良間のある洞窟内」などとデタラメを書き、「生きることを自ら放棄せざるを得なかった住民の絶望は、いかばかりであったろう」と、あたかも死者に同情するかのような表現を用いている。死者を利用しているのは大田昌秀氏のほうではないのか。

 写真は、集団自決の軍命令が出されたと最初に書いた沖縄タイムス編『鉄の暴風』の改訂版にも掲載されており、「住民の集団自決の惨状と思われる米軍の写真記録」の説明が付いている。

 このほか、沖縄県教職員組合が発行した著作物に「集団自決」と断定した説明とともに、この写真が掲載されている。

 これが集団自決の現場写真であることへの疑問は前述したが、同写真のオリジナルの説明文を見れば、さらに真実が明らかになるだろう。

 筆者はそのオリジナルの説明文を、沖縄県南部にある沖縄県平和祈念資料館で入手した。同資料館は何度か訪れたことがあるが、館内にはこの写真が畳二枚分ほどの大きさで掲示されている。

 写真の下には、次のような説明文がある「犠牲となった住民(米軍の説明では砲撃による死となっている) 糸満市 六月二十一日」

 続いて英文の説明がある。

「Civilian victims of the fighting,Itoman City, June 21, 1945(Accordingto the U.S. military, these deaths werethe result of artillery shelling. )」

 日本語の説明書きのなかに、「米軍の説明では……」とあるので、平和祈念資料館の職員に「この写真のオリジナルの説明文はないのか」と尋ねると、職員は「あるはずです。しばらくお待ちください」と奥に入り、やがて一枚のペーパーを筆者の前に差し出

した。

「Caught in the vortex of war, thesecivilians on Okinawa were hit by ashell as they tried to escape throughthe front lines in the 32ND Regt,Sector, 7th Division. 6/21/45」

 邦訳すれば、「戦乱に巻き込まれるなか、それら沖縄の民間人たちは、第七師団第三十二連隊地区の前線を通って逃れようとしたところ、砲弾(弾丸)に襲われた」となる。

 この文面からは、集団自決との関係を見出すことは全くできない。

 周知のごとく、牛島満司令官が自決したとされる六月二十三日、沖縄における日本軍は事実上、敗北した。

 だが、その直前の六月十八日、勝利を目前にした米軍は、沖縄上陸軍最高指揮官のサイモン・バックナー中将が喜屋武半島の最前線視察中に、日本軍の砲撃を受けて戦死。最高指揮官を失った米軍は激怒し、南部地域において徹底的な掃討作戦を展開した。

 六月二十一日撮影の本写真は、このときの米軍の砲撃で殺された沖縄住民にほかならない。集団自決とは何ら関係がないのである。

 大田氏は、こう語っている。「私は、戦争から生き延びた時、戦場跡で一つだけ固く腹を決めたことがあります。それは思想にしろ、信条にしろ、自分なりに納得しうるものだけを身につけようということでした。

 つまり、他人からの受け売りの思想ではなくて、真に自分の心身で体得した、いわば自らの背丈に応じた思想に従って行動しようと決めたわけです」(『沖縄 平和と自立の闘い

─写真と語録で見る大田知事の二九九〇日』より)

 だが、「真に自分の心身で体得した、いわば自らの背丈に応じた思想に従って行動」した結果が、写真の意図的な悪用だったとは。

大田昌秀氏が、以上のような「集団自決」キャプションの改竄を行った影響は甚大である。大田氏はこのほかにも自らの著書にこの写真を掲載してきたが、さらに大田氏以外の著作物でこの写真はどのように紹介されたのか。主な事例を以下に記してみる。

 ①『沖縄戦記録写真集 日本最後の戦い』(一九七七年九月十五日発行)発行・月刊沖縄社/発売・新日本教育図書株式会社/写真提供・米国防総省

「米第三十二連隊の布陣地帯からのがれようとして、弾丸に倒れた非戦闘員たち(六月二十一日)。米軍の説明にはこうあるが、写真は集団自決の現場のように見える」

 ②『証言・沖縄戦 戦場の光景』(一九八四年十一月十五日発行)

著者・石原昌家/発行・青木書店「家族・親類・友人・知人どうしで殺しあった凄惨な集団自決の現場と考えられている写真」

③『昭和の戦争5 悲哭──沖縄戦』(一九八五年八月二十六日発行)

 責任編集・豊平良顕/発行・講談社「集団自決──沖縄の住民たちの凄惨な死。」

 ④『沖縄と天皇』(一九八七年七月三十一日発行)

 執筆者・安仁屋政昭ほか/発行・あけぼの出版「天皇の軍隊によって多くの県民が死ぬことを強制され、集団自決においこまれた」

 ⑤『写真記録 沖縄戦後史』(一九八七年十月二十四日発行)

 編集・沖縄タイムス社/発行・沖縄タイムス社「集団自決 爆発音と悲鳴、慶良間列島における住民の集団自決? はこの世で目にした最も痛ましい光景だった=1945」

⑥『渡嘉敷村史 通史編』(一九九〇年三月三十一日発行)

 編集・渡嘉敷村史編集委員会/発行・渡嘉敷村役場「親が子を、子が親を殺した集団死だろうか それとも…… 一九四五年三月〜七月」

 ⑦『別冊歴史読本(第七十号) 沖縄 日本軍最期の決戦』(一九九二年五月二十日発行)

 発行・新人物往来社「米軍の従軍カメラマンは『米第32連隊の布陣地帯からのがれようとして砲弾に斃たおれた非戦闘員たち』と説明を加えているが、写真の情景と六月二十一日の撮影月日から見て、戦闘末期に島尻戦線で続発した集団自決の

現場と思われる」

 ⑧『琉球・沖縄写真絵画集成(第三巻)沖縄全土が戦場になった』(一九九七年十二月十五日発行)監修・新崎盛暉/編集・解説:我部政男・宮城保/発行・日本図書センター「『集団自決』 降伏・捕虜を許さない皇民教育がもたらした惨状」

 ⑨『沖縄戦から何を学ぶか 戦後60年 戦争を知らない世代のための平和学習書』(一九九九年九月七日発行)

 著者・新城俊昭(沖縄歴史教育研究会代表)写真説明それ自体はないが、この写真のそばに、次のような本文がある。「慶良間諸島の住民は、日ごろ『獣のように残虐』だと教えられていた米軍が上陸してきたことによってパニックにおちいり、日本軍による直接・間接の命令・誘導等による『集団死』がおこりました」

 これを読めば、「自決命令による集団自決の場面」という印象を読者に植えつける目的で写真が掲載されたことは明白と言えよう。

 ⑩『母と子でみる 沖縄戦と教科書』(二〇〇〇年八月七日発行)

 著者・安仁屋政昭、徳武敏夫/発行・株式会社草の根出版会

「住民の集団死と思われる写真(沖縄本島南部。一九四五年)」

 筆者が知る範囲では唯一、原文に忠実にこの写真説明を紹介したと判

断できたのは、『決定版 日本の終戦46人の目撃者 米国国防総省報道写真班の証言秘録』(一九八五年、編集・三根生久大/発行・双葉社)である。ここには、「米第七師団第三十二連隊の第一戦攻撃で逃げ惑い、火砲、銃弾攻撃で見るも無惨な死体となった沖縄の住民たち(昭和二十年六月二十一日)」とある。

 このように見ていくと、最初にこの写真を日本で紹介した大田氏の写真説明の影響がいかに大きかったかが理解できるであろう。写真提供が米国防総省や米国立公文書館と記したとしても、その写真説明の原文に一つひとつ当たるという丁寧な作業を編集者や出版社が行わず、大田氏の写真説明をもとに適当にアレンジしたことが、この一件で露呈したと

も言える。

 大田氏が改竄していたのは、写真説明だけではなかった。彼は戦時中、鉄血勤皇隊にいたことは前述したが、彼が投降し、米軍の捕虜となった日付が、著書によって違うのである。

『沖縄健児隊』(一九五三年、編者・大田昌秀、外間守善/発行・日本出版協同株式会社)では、投降が「昭和二十年九月十六日」とあるが、それから二十四年後に出した『鉄血勤皇隊』(著者・大田昌秀/発行・ひるぎ社)では、「昭和二十年九月二十三日」と、一週間遅くなっている。

 それが、『沖縄からはじまる』(一九九八年、著者・大田昌秀、池澤夏樹/発行・集英社)では、「私たちが捕虜になったのは、日本が正式に降伏してから二か月以上もあとの十月二

十三日のことです」と、一カ月も遅く投降したことになっている。

 まさか捕虜になったあと、二度、脱出したということでもあるまい。それとも、誰も投降日のチェックなどしないと読者をあなどって、終戦後も徹底抗戦した勇敢な兵士に自分自身を演出したかったのだろうか。投降場所も、東風平村名城付近から摩文仁に変わっている。大田氏はジャーナリズムを専攻したというが、著作物でこう二転三転するのは

どういうわけか。

 琉球新報記者を経て、のちに株式会社プレス沖縄を立ち上げた新里英之氏が、大田知事の人間性を描いた

『大田沖縄県知事の背信行為』を一九九四年九月に上梓している。このなかで、同年六月の訪米時に、デラムス下院軍事委員長と会見していないにもかかわらず、直接会って要請、

意見交換をしたかのような発表をしていたことが県議会で問題となった

場面が、リアルに描写されている。

 さすがにこのときばかりは、地元メディアも大田知事を追及。大田知事はたまらず、「体調を崩し、会う予定だった米軍事委員長とは会わなかった」と噓を認め、謝罪したというのだ。

筆者は大田昌秀氏に、以下の質問状を出した。

①撮影現場にいなかった貴殿が、米軍撮影者の説明を否定して、「明らかに手榴弾による集団自決とみられる」とする根拠は何か。

②当方では、沖縄平和祈念資料館で、米軍撮影者が記録した英語のキャプションを入手したが、それは集団自決とは全く関係ないものだった。事実を歪曲して発表することは、ジャーナリスト、学者、県知事、国会議員を歴任された著名人として、あってはならない行為と判断するが、いかがお考えか──。

 これに対する大田氏のコメントは、以下のとおりである。「小生は二十年間余も米国の国立公文書館や国会図書館を訪ね沖縄戦及び敗戦後の沖縄占領政治について写真や資料を収集した。その過程で米兵の写真のキャプションに日付や地名の取り違えなどいくつもの間違いがあることに気付かされました。したがって米兵の付けたキャプションを全面的に肯定するわけにはいきません。貴殿は戦争に出たかどうかは知りませんが、小生は一九四五年三月三一日から同十月二十三日まで沖縄守備軍司令部の直属隊の鉄血勤皇師範隊の一員として、沖縄戦に銃と手榴弾で武装して参戦、負傷して九死に一生を得た。その間地上戦の表現を絶するおぞましい戦場の醜い場面をいやというほど目の当たりにしました。

 その体験を通して問題の写真は砲爆撃の結果とは思われず、小生たちが五月末に首里を撤退し沖縄戦の末期近くに喜屋武半島の米須集落一帯の断末魔の戦場で目撃した集団自決に酷似しているので、『集団自決に見える』、としたのであって、集団自決問題についてはすでに大江・岩波裁判の最高裁判決で片がついているので貴殿が言うように執拗に集団自決に結びつける必要は全く無い。その写真が砲弾によるのであれば、多くの場合死体がちぎれて四散し、集団自決のように一箇所に死体がほぼ原型を留める形でまとまることは極めて稀であり、そのことは戦場に出た人間ならばすぐ理解できるはず。

 疑問があれば沖縄戦の砲弾による犠牲者の写真とご指摘の写真とを注意深く比較して欲しい。また沖縄戦を体験した人に尋ねてみたらよいでしょう。

 尚、貴殿が『集団自決に見える』との記述を事実に反すると否定するのであればその根拠を示されたい。貴殿自身も戦場の現場には居なかったはずだから……」

 大江・岩波裁判の決着は二〇一一年、大田氏が「集団自殺」として何年ものちのことである。米兵の写真にキャプションや地名の取り違えが多いというが、この日付が間違いだという証拠でもあるのだろうか。それに、自分の本のキャプションがバラバラなのはなぜなのだろう。

 大田氏がまとめた『写真記録 人間が人間でなくなるとき』は、ジェノサイド(大量虐殺)をテーマに、「南京事件」から「沖縄戦」へと大量虐殺が連鎖している、と説く。だが、結局は自説を立証せんがために、無関係な写真を「集団自決」の写真と決めつけて悪用しただけではないのか。

 大田氏のしたことはまさに、戦争で亡くなった死者を冒瀆する行為にほかならない。

               ☆

写真一枚の説明にも大田氏は次に例示するような大嘘をついて読者を騙していた。

「写真」のキャプション捏造 時系列

①発行 昭和52年9月7日(1977年) 写真記録「これが沖縄戦だ」

編集者 大田昌秀 発行所 琉球新報社 発売 那覇出版社

米軍の説明では、本島南端で砲撃による死とあるが、あきらかに手榴弾による集団自決とみられる(6月21日) 

 

②発行 1977年9月15日  沖縄戦記録写真集 日本最後の戦い

発行者 佐久田 繁 写真提供 米国防総省 発行所 月刊沖縄社 編集 神谷、中曽根

発売元 新日本教育図書株式会社

米第32連隊の布陣地帯からのがれようとして、弾丸に倒れた非戦闘員たち(6月21日)。米軍の説明はこうあるが、写真は集団自決の現場のように見える。

 

③発行 昭和55年3月3日(1980年) 戦争と子ども―父より戦争を知らない子たちへ―

著者 大田昌秀 発行所 那覇出版社 (*小学校高学年対象と思われる*)

沖縄では、平和時にはとうてい考えることさえできない住民の「集団自決」が決行された(1945年3月)

 

④発行 昭和57年3月3日(1982年) 平成2年7月1日 13刷 記録写真集 沖縄戦

編集 那覇出版社 発行所 那覇出版社 写真提供 米国防省・米陸軍省・米海兵隊本部・米航空隊

▲前線から逃げる途中に砲弾に倒れたと米軍の説明にはあるが、あるいは集団自決のようにもみえる(6月21日)

 

⑤発行 1982年8月10日 総史 沖縄戦

編集者 大田昌秀 発行所 株式会社 岩波書店

慶良間列島における住民の(集団自決)・(米軍の説明では本島南端での(砲撃による死)とある)

 

⑥昭和58年12月10日(1983年)改訂一刷 写真記録「これが沖縄戦だ」改訂版

著者 大田昌秀 発行所 琉球新報社 発売 那覇出版

手榴弾による集団自決(米軍の説明では、本島南部での砲撃による死とある。)

 

⑦1984年First  Edition Copyright 1984 by Masahide  Ota

“MASS SUICIDE” OF WOMEN AND CHILDREN

Morbidly afraid of being captured by Americans as a result of intensive Japanese military propaganda, many civilians chose suicide with hand grenades , knives and            

whatever weapon available.

マサヒデ オオタによる1984  1984の第一版著作権

⑧1987年10月24日 初版1刷 写真記録 沖縄戦後史(7頁)

編者 沖縄タイムス社 発行所 沖縄タイムス社 印刷 文進印刷株式会社

集団自決 爆発音と悲鳴、慶良間列島における住民の集団自決?はこの世で目にした最も痛ましい光景だった=1945

 

⑨1988年6月23日 語りつぐ沖縄戦 珊瑚の島燃えて

編集 「語りつぐ沖縄戦 珊瑚の島燃えて」編集委員会 監修 大田昌秀

(*小学校高学年対象と思われる*)  印刷所 中和印刷紙器株式会社

発行 沖縄県学校用品株式会社

慶良間列島における住民の悲劇(手りゅう弾による「集団自決」と考えられる)

 

⑩1990年3月31日(平成2年) 渡嘉敷村史 通史編

編集 渡嘉敷村史編集委員会 発行 渡嘉敷村役場 印刷 株式会社 南西印刷

親が子を,子が親を殺した集団死だろうか それとも-・・・・1945年3月~7月

 

⑪発行 平成2年5月20日(1990年)改訂13刷 写真記録 「これが沖縄戦だ」改訂版

編著者 大田昌秀 発行 那覇出版

写真 (キャプション無し)

改訂版の刊行にあたってという挨拶文が大田昌秀氏によって書かれ、序として仲宗根政善琉大名誉教授によって書かれ、文中に「大田氏は、集団自決の惨状の写真は、目をおおわしめ、ここにのせるに忍びないと記している。」とあります。

 

⑫発行 1990年6月15日 大田昌秀「平和」を語る

著者 大田昌秀 発行所 公正・公平で心ゆたかな文化県政をつくる県民の会

住民の集団自決か

 

⑬1991年9月7日 初版第1刷 人間が人間で無くなるとき(58・59頁)

著者 大田昌秀 発行所 沖縄タイムス社 印刷 文進印刷株式会社

米軍の捕虜になるのを恐れて、集団自決した民間婦女子たち。(1945年6月21日)

 

⑭1998年9月18日 改訂増補版第一刷 改訂増補版 写真記録 沖縄戦後史1,945-1998

編者 沖縄タイムス社 発行所 沖縄タイムス社 印刷 文進印刷株式会社

集団自決 米軍の捕虜になるのを恐れ、集団自決したとみられる民間婦女子たち―1945年6月21日

 

⑮発行 2002年3月20日 これが沖縄だ 改訂版 写真記録

編集者 大田昌秀      発行 那覇出版社

手榴弾による集団自決(米軍による説明では、本島南部で砲弾による死とある)

 

グラビア 少女が負傷した写真

血みどろになった少女は(実は、この子は、日本兵の暴力から身を守るため、少女の姿にさせられていた少年であった)*

実はこれも語り部の大城盛俊氏と大田昌秀氏が共謀した大嘘であることが判明している。

 

      ★

※特報です!

祖国復帰40周年記念大会の入場料は学生以下は無料と決定しました!

■■沖縄県祖国復帰40周年記念大会についてお知らせ■■

政府や沖縄県は特定の限られた人々で復帰40周年の式典を行う予定です。

当然の事ながら、祖国復帰40周年は、県民あげ、国民をあげて祝うべきものと思います。

私共は、以下のように県内外の有志により、祝賀行事の実行委員会を立ち上げ記念行事を企画致しましたので、多くの方々の参加をお願い申し上げます。

◆日の丸パレード (自由参加)

5月12日(土)11時30分普天間宮集合 同45分出発⇒徒歩20分⇒宜野湾市民会館着

*小旗を用意しております。国旗の持参は大歓迎*300人程度の参加を予定しております。

 

◆記念大会 

5月12日(土)会場:宜野湾市民会館 

入場料:500円 会場1200席

     学生以下は無料!

オープニングセレモニー:13時30分 

県内外の有識者挨拶

特別提言:ペマ・ギャルポ桐蔭横浜大教授「我が祖国チベットと沖縄」

基調講演:津川雅彦(俳優)
       「日本人の誇り―沖縄県祖国復帰40周年を迎えて」

琉球・国まつり太鼓 若手30人による演舞

閉会16時

※祖国復帰四十周年記念大会 告知動画第二弾!

http://www.nicovideo.jp/watch/sm17645327

http://www.youtube.com/watch?v=2geSvyROrm4

◆祝賀レセプション

16時15分より

会場:ジュビランス(宜野湾市民会館向い)

会費:4,000円(検討中)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

主催:沖縄県祖国復帰40周年記念大会実行委員会

連絡先:波の上宮内 090-6831―0989 坂本まで

          Fax098(868)4219

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「ゼロ回答」!保護者有志質問に、PTA会費裏給与問題で県教委

2012-05-02 07:26:50 | 未分類

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今朝の沖縄タイムスの一面トップは、珍しく政治には無関係のこの大見出しが読者の目を引く。

自転車新城、初の五輪

ロンドン県勢1号

石垣出身初

このところ石垣市が全国的話題の中心になるニュースが続いている。

ざっと思いつくだけでも破廉恥ペンギン市長の「長期極左王国の崩壊」、「尖閣沖中国船追突事件」、「八重山教科書騒動」そして最近では「北朝鮮のミサイル発射に対するPAC3配備問題」等々、よきにつけ悪しきにつけ八重山、石垣地区が全国区になったことは間違いの無い事実である。

そして今回は石垣出身の新城選手が県内初の五輪決定。

石垣出身のスポーツ選手と言えば古くは具志堅用高選手や八重山商工の甲子園での活躍(ロッテに大嶺)、芸能界ではビギンや夏川りみ等人材豊富だがオリンピック選手ともなると全国区を飛び越して世界規模になる。

先ずはめでたいことである。

            ★

当日記で頻繁に登場する極悪複合体という造語は元々、古くからの読者の太平山さんが使用していた極悪共同体を借用させて頂いたもの。

沖縄メディア、沖教組、県教委(県教育庁)、公職労、プロ市民団体、左翼大学教員等の反日左翼勢力の集合体を意味するが、それぞれが独立した団体のように見えて、実は地下茎ではしっかり絡み付いてお互いに養分を与え合い、助け合っていることから複合体と勝手に命名したもの。

極悪複合体の団結力を見事に知らしめた例としては、八重山教科書問題である。

慶田盛竹富教育長やこれを後押しする県教育庁、そして歴代教育長で構成する「ゾンビの会」などがイデオロギーが絡んだ見苦しい騒動を巻き起こし全国に恥を晒してくれた。

ところが、元来イデオロギーとは関係の無いはずの県立高校PTA会費流用裏給与問題でも、沖縄メディアは同じ複合体の構成員である沖教組(高教組)や県教育庁が絡んでいるため、これを擁護し県民の目から隠蔽しようと涙ぐましい努力を続けている。 このところ連戦連敗で、多少勢いに衰えが見えたとはいえ極悪複合体が依然として機能していることを示したのが、沖縄2紙の報道姿勢である。

先ず昨日の沖縄タイムスはこのニュースを完全に黙殺し、琉球新報は問題の本質を隠すため抜けた記事で読者を欺いた。

そしてここでも八重山日報だけが読者の知る権利を守るため一人気を吐いている。

有志質問に「ゼロ回答」 県教委 ゼロ校時問題で

 県立高校の教員が「ゼロ校時」と呼ばれる早朝講座などの手当を県教育委員会の承認を得ずに保護者から受け取っていた問題で、保護者有志の会の公開質問状に対し、県教委は27日、「回答は困難」とする文書を有志の会メンバーの手登根安則さん(48)にファックスで送った。


 文書では「公開質問状の内容は全国の情報を収集し、かつ十分に検討していかなければならない旨(むね)の質問も多いことから、現状では回答は困難である」としている。


 有志の会は18日に提出した公開質問状で、学校側が手当についての詳細を明らかにしてこなかった理由や、手当の返還請求が提起された場合の対応、ゼロ校時の廃止の是非など12項目を質問していた。


 手登根さんは「不誠実な回答で、残念に思う。県教委が答えられないなら、文科省に直接問い合わせるしかない」と話した。


 文書の差出人は県教委県立学校教育課の長濱雅仁副参事の個人名となっており、職名は記されていない。手登根さんは「県教委に対する質問状なのに、個人名で回答を出すのもおかしい」と反発している。

                  ☆

沖縄タイムスは完全スルーで、琉球新報は県教育庁の「ゼロ回答」にはひと言も触れずにこの有様である。

冒頭に引用の八重山日報の気迫溢れる記事と見比べて欲しい。

ゼロ校時を議論 県教育庁、来月に委員会設置

琉球新報 2012年4月27日

 県教育庁県立学校教育課は26日までに、「早朝講座等在り方検討委員会」(仮称)を5月中に立ち上げる意向を固めた。有識者や学校長、PTAなど10人前後のメンバーを想定し、ゼロ校時と呼ばれる早朝講座や放課後講座について、学力向上の観点や、法律上クリアすべき課題などについて話し合う。7月中に今後の在り方に関して結論を出す予定。
 早朝講座をめぐっては、教職員が兼業の届け出をせずに報酬を受け取っていたことが国会で指摘されたことを受け、県教育庁が13日の県立学校校長研修会で報酬を受け取らないよう各学校長に伝えている。
 同課は「県民に説明ができ、各学校がしっかり成果を挙げられるように、あらゆる角度から議論する」としている。

               ☆

お仲間の県教育庁が不作為で不祥事を見て見ぬ振りしていたことに対し、父母の有志が公開質問状を出したにもかかわらず、県教育庁は個人名で「ゼロ回答」と不誠実な態度を露にしたが、これを問題として取り上げたのは八重山日報一紙だけという厳然たる事実が、沖縄ディアと極悪複合体の馴れ合いと腐敗を見事に象徴している。

有志の会が提出した公開質問状についてはここに公開してある。

PTA代表と県教委がトラブル、質問状の受理をめぐって

 

【おまけ】

以下は新報の社説にあきれ果てた読者のコメントです。

■タマさんのコメント

≪今日の新報で今回の県立高校教員への「裏手当て」に関する(多分初めての)社説を載せています

ゼロ校時徴収金 生徒の意欲に応える改善を
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-190620-storytopic-11.html

すごく新報らしい社説です。生徒のためといいながら書いてる内容は「裏手当て」を貰ってる方への擁護としか読めません。
そもそも最初はゼロ校時だけでなく遅刻指導や夏季講習などでも報酬を貰っている事で問題となったはずですが、何故か問題がゼロ校時の事だけになっているような気が…

ゼロ校時徴収金 生徒の意欲に応える改善を琉球新報社説 2012年4月30日 <iframe class="hatena-bookmark-button-frame" style="width: 50px; height: 20px;" title="このエントリーをはてなブックマークに追加" frameborder="0" scrolling="no" width="50" height="20"></iframe> 

 「ゼロ校時」が関心を呼んでいる。県立高校で勤務時間外に早朝講座や夏季講座を行う教員への報酬費を保護者から徴収していることについて、報酬額に差があり、出納にも不透明さがあるなどの疑問が示されているためだ。
 琉球新報が特別支援学校を除く県立60高校を対象に実施したアンケート(31校から回答)では、教員報酬に対する保護者1人当たりの負担は最少で年間256円(2011年度)、最多で3万6千円(同)、教員への報酬については通常50分の授業一こまにつき、最少で560円、最多で3千円と、学校間で開きがあった。3千円は「塾講師並み」との指摘もある。
 教員報酬費はPTA総会で承認され、校納金から支出されるが、金額や繰越金の使い道などの説明が不十分、外部監査が行われていないなど、保護者から出納管理の改善を求める声が上がっている。
 「ゼロ校時」は大学進学率の向上を図る目的で新設校を中心に導入され、ほかの高校にも普及してきた。生徒や保護者の要望も強いし、それに応えようという教員ら学校関係者の使命感や熱意がなければ成り立たないシステムだ。教員らは私的時間も割いて取り組んでいる。無報酬でも引き受ける教員も多いことだろう。そんな教員らに多少の「手当」を、という保護者らの心情も理解できる。
 整理すべき課題は確かにある。報酬費についての説明責任が果たされていたかとなると、やはり疑問だし、それに十分に関心を払ってこなかった保護者の側にも責任の一端はあるだろう。しかし「枝を撓(た)めて花を散らす」ようなことがあってはならない。
 そもそもこの問題は、国会の参院予算委員会で突然持ち出されて「裏手当だ」などとも批判されたが、実態からしてそういった批判は必ずしも当たらないだろう。他意をもって議論を矮小(わいしょう)化させてしまうと、実害を被るのは肝心の生徒たちであることを肝に銘じるべきだ。
 県教育庁は今月13日、報酬を受け取らないように各高校に通知したが、5月中に「早朝講座等の在り方検討委員会」(仮称)を立ち上げ、法律上クリアすべき課題などを協議し、7月をめどに結論を出すという。この際、いい機会だ。十分に議論を重ねて改善を図り、生徒のやる気と可能性を損なわない「在り方」を確立してほしい。

              ☆

■亮太さんのコメント

≪タマ様

ルーピー新報の社説読みました。

>>県立高校で勤務時間外に早朝講座や夏季講座を行う教員への報酬費を保護者から徴収していることについて、報酬額に差があり、出納にも不透明さがあるなどの疑問が示されているためだ。

完璧に問題をすり替えています。
今問われているのは

1、公務員のアルバイトを禁じた公務員法違反の疑い。

2、教員の勤務時間の不規則制を考慮した教員手当ての範疇の問題。

3、保護者への説明責任を欠いた業務上横領の疑い。

の問題であって、ルーピー新報が言う

>>報酬額に差があり、出納にも不透明さがある

とか言う問題では無いですね。
問われているのはゼロ校授業の違法性です。
ルーピー新報も随分県民をなめきっていますね。
私は安易な現金収入に、教員が群がっただけだと思いますよ。≫

■進路研修部さんのコメント

≪公開質問状への回答が、メールで回ってきました。
回答が、有志の会、会員の個人宅へ「FAX」で送られてきたようです。
それも、教育長名ではなく、担当者の個人名で送られてきたようです。
どうして? ちょっと考えられません。
内容を転載します。

「貴殿より提出された公開質問状の内容は、全国の情報を収集し、かつ十分に検討をしていかなければならない旨の質問も多いことから、現状での回答は困難である。」
平成24年4月27日  長●雅●

※役職、所属無しの個人名のため伏字にします。

※原本が入手できるか聞いてみます。≫

              ★

 

■■沖縄県祖国復帰40周年記念大会についてお知らせ■■

政府や沖縄県は特定の限られた人々で復帰40周年の式典を行う予定です。

当然の事ながら、祖国復帰40周年は、県民あげ、国民をあげて祝うべきものと思います。

私共は、以下のように県内外の有志により、祝賀行事の実行委員会を立ち上げ記念行事を企画致しましたので、多くの方々の参加をお願い申し上げます。

◆日の丸パレード (自由参加)

5月12日(土)11時30分普天間宮集合 同45分出発⇒徒歩20分⇒宜野湾市民会館着

*小旗を用意しております。国旗の持参は大歓迎*300人程度の参加を予定しております。

 

◆記念大会 

5月12日(土)会場:宜野湾市民会館 

入場料:500円 会場1200席

オープニングセレモニー:13時30分 

県内外の有識者挨拶

特別提言:ペマ・ギャルポ桐蔭横浜大教授「我が祖国チベットと沖縄」

基調講演:津川雅彦(俳優)
       「日本人の誇り―沖縄県祖国復帰40周年を迎えて」

琉球・国まつり太鼓 若手30人による演舞

閉会16時

※祖国復帰四十周年記念大会 告知動画第二弾!

http://www.nicovideo.jp/watch/sm17645327

http://www.youtube.com/watch?v=2geSvyROrm4

◆祝賀レセプション

16時15分より

会場:ジュビランス(宜野湾市民会館向い)

会費:4,000円(検討中)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

主催:沖縄県祖国復帰40周年記念大会実行委員会

連絡先:波の上宮内 090-6831―0989 坂本まで

          Fax098(868)4219

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続・安里巡査の証言、「慶良間の真相」

2012-05-01 07:41:09 | ★パンドラの箱訴訟

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■八重山日報 2012年4月30日

慶良間で何が起きたのか⑤ ―人間の尊厳を懸けた戦い― 上原 正稔

 

 パンドラの箱を開けた宮城晴美さん
 一九九五年六月下旬、沖縄タイムスの文化欄に座間味出身の宮城晴美さんが「母の遺言―切り取られた〝自決命令〟」を発表した。凄まじい衝撃波が走った。座間味村女子青年団長であった晴美さんの母初枝さんは、戦後、『家の光』誌で「住民は男女を問わず、軍の戦闘に協力し、老人、子供は村の忠魂碑前に集合して玉砕すべし、との命令が梅澤裕隊長から出された」と記していたが、その部分は〝嘘〟だった、というのだ。「母はどうして座間味の〝集団自決〟が隊長命令だと書かねばならなかったのか」晴美さんは説明している。


 ―一九四五年三月二十五日。その夜、初枝さんに「住民は忠魂碑の前に集まれ」と伝令の声が届いた。初枝さんはその伝令を含め、島の有力者四人と共に梅澤隊長に面会した。意味もわからぬまま、四人に従っていったのだ。有力者の一人が梅澤隊長に申し入れたことは、「最後の時がきた。若者たちは軍に協力させ、老人と子供たちは軍の足手まといにならぬよう忠魂碑の前で玉砕させたい」というものだった。初枝さんは息も詰まらんばかりのショックを受けていた。隊長に〝玉砕〟の申し入れを断られた五人はそのまま引き返した。初枝さんを除いて四人はその後自決した。―


 梅澤さんはこの場面について大城将保さんへの手紙(一九八六年三月の沖縄資料編集所紀要)の中で次のように記している。「二十五日夜十時頃、戦備に忙殺されていた本部壕へ村の幹部が来訪してきた。助役宮城盛秀氏、収入役宮平正次郎氏、校長玉城政助氏、吏員宮平恵達氏および女子青年団長宮平(現宮城)初枝さんの五名。その用件は次の通りであった。一、いよいよ最後の時が来た。お別れの挨拶を申し上げます。二、老幼婦女子はかねての決心の通り、軍の足手まといにならぬよう、また食料を残すため自決します。三、つきましては一思いに死ねるよう、村民一同忠魂碑前に集合するから中で爆薬を破裂させて下さい。それが駄目なら手榴弾を下さい。役場に小銃が少しあるから実弾を下さい。私は愕然とした。私は答えた。一、決して自決するでない。軍は持久戦により持ちこたえる。村民も壕を掘り、食料を運んであるではないか。生き延びて下さい。共にがんばりましょう。二、弾薬は渡せない。しかし、彼らは三十分ほども動かず、懇願を続け、私はホトホト困った。折しも艦砲射撃が再開されたので、彼らは急いで帰って行った。」


 晴美さんのコラムは梅澤さんの手記が正しかったことを裏付けたのだ。戦後、沖縄に援護法が適用されることになったが援護法は本来、軍人、軍属に適用されるもので、一般住民には適用されないものだ。そこで村当局は「隊長の命令で自決が行われており、亡くなった人々は戦争協力者として遺族に年金を支払うべきだ」と主張したと初枝さんは晴美さんに残した手記で記していたのだ。


 そうか、そうだったのか。僕の目の前で霧が晴れ、全てがはっきり見えてきた。厚生省は一般住民の戦死者でも戦闘に協力した者には「年金」を支給するという条件を出してきたため、座間味だけではなく、渡嘉敷でも「隊長命令により自決した」ことにせねばならなかったのだ。宮城晴美さんは正にパンドラの箱を開けてしまった。「母は関係者が存命しているうちは発表してはならないが、いつか必ず真相を発表してくれ」と晴美さんに遺言していたが、晴美さんは母の遺言に背いて新聞で発表した。『母の遺したもの』という本を出版し、時の人となったが、村の関係者から「余計なことをした」とさんざん叱られる羽目になり、本を書き換えたり、裁判に出ては涙ながらの証言をしたり、パンドラのようにひどい目に遭っているようだ。パンドラの箱から飛び出したものが元に戻らないように、彼女が告白した衝撃の真実は変わらない。パンドラの箱からこの世の全ての悪徳が飛び出した。宮城晴美さんは真実の扉を開けた。パンドラの箱には希望が残ったが、晴美さんの箱には知りたくない真実が残った。だが、少なくとも僕の眼の前の霧を払ってくれた。心から感謝している。


 二〇〇六年一月、産経新聞は、琉球政府で援護課業務に携わった照屋昇雄さんに取材し、「遺族たちに戦没遺族援護法を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類を作った。当時、軍命令とする住民は一人もいなかった」との証言を得た。照屋さんは「嘘をつき通してきたが、もう真実を話さなければならないと思った。赤松隊長の悪口を書かれるたびに、心が張り裂かれる思いだった」と涙ながらに語った。ところが、沖縄タイムスは「照屋氏は一九五七年には援護課に勤務していないという証拠がある」と産経新聞の「誤報」を報じたが、後日、照屋さんは大切に保管していた一九五四年の「任命書」を提出し、この問題は結着したが、タイムスがこの失態を報ずることはなかった。タイムスも新報も重要証人の照屋昇雄さんに一切取材していない。


 梅澤さんは前記の手記の終りに記している。「座間味島の軍命令による集団自決の通説は村当局が厚生省に対する援護申請のため作製した『座間味戦記』および宮城初枝氏の『血ぬられた座間味島』の手記が諸説の根源となっている。」初枝さんが梅澤さんに「本当にごめんなさい」と謝った時、梅澤さんは感涙したとのことだ。 (つづく)

            ☆

■八重山日報 2012年5月1日

慶良間で何が起きたのか⑥ ―人間の尊厳を懸けた戦い― 上原 正稔

 赤松さんは一九七〇年三月二十六日、渡嘉敷村民に招かれ合同慰霊祭に参加する目的で那覇空港に着いた時、抗議団の怒号の嵐の出迎えを受けた。「何しにノコノコ出てきたんだ。」「人殺しを沖縄に入れるな」「赤松帰れ」のシュプレヒコールが浴びせられた。赤松さんは結局、渡嘉敷に上陸することはかなわなかった。沖縄で殺人鬼と面罵され、故郷に戻ると、事件を知った娘から「お父ちゃんはなんで沖縄の人たちを自決に追いやったのか」と責められた。赤松さんは「娘にまで誤解されるのは、何としても辛い」と記している。読者は赤松さんの人格について知らないものと思う。赤松さんの「ひととなり」を伝える二通の手紙を僕は一九九五年比嘉(旧姓安里)喜順さんから預かったが、それをここで紹介しよう。一九七〇年四月二日付の赤松さんからの比嘉さんへの手紙は次のように綴っている。―(前略)今度の渡沖については全く合点が行かず、なんだか一人相撲を取ったようで釈然と致しません。(中略)村の戦史については軍事補償その他の関係からあの通りになったと推察致し、できるだけ触れたくなかったのですが、あの様な結果になり、人々から弁解のようにとられたことと存じます。しかしマスコミも一部不審を抱いているように感じられましたので、いつか正しい歴史と私たちの善意が通じることと信じております。―


 四月十七日付の手紙は次のように伝えている。―(前略)安里さんにはあのような俗説の流布されている中、ただ御一人で耐え忍び、ご心中のほどご察し申しあげております。(中略)先日、元琉球新報の記者より手記を書いてくれ、と言われ、聞いたところによりますと、現在マスコミの半分ほどは赤松さんを信じていると申されておりましたが、一度世に出し、これほど流布されてからでは難しいだろうから郷友会などを取材して新たに真実のものを出したらどうかと言っておきました。いづれにしても、私たちは真相が明白にされ、私たちの汚名が拭い去られる日を期待し、努力しております。一日も早く沖縄の人々にも理解していただき、私たちと島民が心を合わせて共に戦ったように、次の世代の人々が憎しみ合うことなく本土の人々と仲よくやってゆけることを祈ってやみません。安里さんも機会をつくって、ぜひ本土に来てください。皆、歓迎してくれると思います。また子供さんの勉学につきましても私たちをご利用下さい。いくらかでも戦時中のご恩返しができれば幸甚です。奥様はご病気のとのことですが、その後いかがですか。すでに沖縄は暑いと思いますので御自愛専一のほどお祈り致します。 敬具 赤松嘉次


 これが慶良間の〝集団自殺〟(集団自決という言葉は伊佐良博記者の創作であると、本人が記している)の真相だ。だが、沖縄タイムスの『鉄の暴風』は今も発行され続け、次のように伝えている。―恩納河原の自決のとき、島の駐在巡査(安里喜順さんのこと)も一緒だったが、彼は「自分は住民の最後を見とどけて、軍に報告してから死ぬ」と言って遂に自決しなかった。…赤松大尉は「軍として最後の一兵まで戦いたい。まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は全ての食糧を確保して、持久態勢をととのえ、敵と一戦を交えねばならぬ。事態はこの島に住むすべての人間に死を要求している」ということを主張した。(中略)座間味の戦隊長梅澤少佐は米軍上陸の前日、忠魂碑前の広場に住民を集め、玉砕を命じた。住民が広場に集まってきたその時、近くに艦砲弾が落ちたので、みな退散してしまったが、村長はじめ役場吏員などその家族は各自の壕で手榴弾を抱いて自決した。…日本軍は最後まで山中の陣地にこもり、遂に全員投降。隊長梅澤少佐のごときは、のちに朝鮮人慰安婦らしきもの二人と不明死を遂げた。―


 この記述には真実の一カケラもないことは誰の目にも明らかだろう。正に「見てきたような嘘」でしかない。ノーベル賞作家の大江健三郎はこの『鉄の暴風』の記述をそのまま信じ、『沖縄ノート』で旧軍指揮官を糾弾したのだ。人は誰であれ、己の目の高さでしか物を見ることができない。だから、信じたいことを信じ、自分に都合のよいことを信じてしまうのだ。だが、慶良間の〝集団自殺〟については赤松嘉次さんと梅澤裕さんが命令したことはないことははっきりしている。


 人間の尊厳を取り戻す時
 僕は一九九六年六月琉球新報の『沖縄戦ショウダウン』の中で言明したが、もう一度ここで述べよう。―沖縄の新聞、特に沖縄タイムスの責任は限りなく重い。そして一人の人間をスケープゴート(生贄)にして、〝集団自殺〟の責任をその人に負わせてきた沖縄の人々の責任は限りなく重い。僕は長い間、赤松さんと梅澤さんは〝集団自殺〟を命令したとの先入観を拭い去ることができなかった。真実が明らかになった今、赤松さん、梅澤さん、そしてご家族の皆さん本当にご免なさいと謝罪しよう。そして今、僕は一つ脱皮して一つ大人になることができた。―


 2011年10月中旬、ぼくは兵庫県を訪れ、赤松嘉次さんの弟秀一さんに迎えられ、一緒に嘉次さんのお墓参りをした。ぼくには神も仏も遠い存在だったが、長年の重荷を下ろし、何だか心が軽くなった。


 だが、大きな問題が残されている。自分の親、子、兄弟を殺して遺族年金を受け取っていることは誰も語りたくないし、語れないものだ。僕は知識人でもなく、文化人でもなく、宗教家でもなく、道徳家でもない。だが、僕は知っている。自分が愛する家族に手をかけた者はいつまでも忘れず、心を痛めているのだ。だが、それを軍隊のせいにしたり、国の教育のせいにしたり、他人のせいにしてはならない。ましてや、無実の軍人のせいにしてはならない。自分のこととしてとらえない限り、心が癒されることはないのだ。そして、赤松さんと梅澤さんとそのご家族にきちんと謝ることだ。誰も彼らを責める者はいない。実際、座間味で母親に首を切られたという青年は「母親を恨んでいるか」との質問に「そんなことはありません。母を心から愛しています」ときっぱり答えた。赤松さんも梅澤さんも心の広い人間だ。きっと許してくれるはずだ。いや、きっと「ありがとう」と言ってくれるだろう。それが人間の尊厳を取り戻すということだ。僕はそう信じている。                                               (おわり)

             ☆

我々は「言論の自由」などと気軽に言うが、発表する場所の無い言論など一片の紙屑にすぎない。

だが弾圧され、言論封殺された言論が逆境を乗り越え一旦日の目を見ると、本来の価値に加えて輝きを増し、その反動で読む人の胸を打つ場合がある。

ドキュメンタリー作家上原正稔さんの著作「慶良間で何があったのか」が、それだ。

琉球新報が「社の方針と異なる」という理由で掲載拒否したことを、「慶良間で何が起きたのか」を本日の完結編まで読んだ人なら容易に理解できるだろう。

仮に琉球新報が読者を舐めきった暴挙に及ばず、そのまま上原さんの連載記事を継続していたらどうなっていたか。

勿論「言論封殺」で訴えられることもなかった。

「慶良間で何が起きたのか」の記事がネットに載ることもなかった。(琉球新報はこの種の連載記事はネットには載せない) 

したがってこのようにネットを通じて「幻の原稿」が全国に拡散されることも無かったはずだ。

琉球新報が必死になって封殺しようとした「慶良間の真相」は、皮肉にも、琉球新報自身の「言論封殺」により全国読者の耳目に触れる機会を与えられたことになる。

さらにもう1人、「幻の原稿」に輝きと弾みをつけた功労者の名を忘れてはいけない。

南の島の小さな新聞八重山日報だ。

沖縄の代表的新聞琉球新報に反旗を翻すことは、異論を許さぬ「全体主義の島沖縄」で同じ記者クラブに属する弱小新聞としては、かなり勇気の要ることだ。

さすがの八重山日報も上原さんが琉球新報を提訴した経緯を書いた拙原稿を寄稿したときは、琉球新報社の社名を「R社」にする気の使いようだった。

だが八重山日報はあえて上原さんという火中の栗を拾った。

八重山日報の決断は、閉塞した沖縄の論壇に風穴を開けたことになる。

八重山日報の勇気ある行動にはいくら賛辞を送って余りあるものがある。

           ☆

 

上原さんの原稿に登場する比嘉(安里)喜順さんは4年前の2008年、94歳の天寿を全うされた。

「集団自決」は安里喜順巡査にとってまことに不幸なめぐり合わせであった。

当時29歳の安里巡査は事件の僅か2ヶ月前に渡嘉敷島に赴任したばかりの単身赴任であり、島の様子にも不案内であった。

ところが、渡嘉敷着任の一ヶ月足らずで、本島に新設された塩屋警察署への転勤が決まり、本島へ戻るはずだった。

本島との船便の連絡が途絶えがちだったため、その辞令を受けるのが遅れ、結局島を出ることが出来なかった。

結果的に「集団自決に」に巻き込まれることになる。

昭和20年、大宜味村に塩屋警察署が新しくできて、私はそこに転勤することになっていたが、とうとう赴任することができなかった。
 
2月12日の日付で辞令は出ていたが、私が渡嘉敷島で受け取ったのは40日も経過した3月22日であった。
 空襲などいろいろな事情があって相当期間が過ぎてから私に届いた。それを受け取って初めて自分が転勤になっていたことを知った。
 辞令を受け取ったので翌日にでも本島に渡ろうと思っていたが、その翌日の23日から渡嘉敷島は艦砲と空襲が激しくなり、沖縄本島に渡ることができず、そのまま渡嘉敷島にのこり戦争に巻き込まれ、島と運命を共にした。(「沖縄県警察史」より)

軍隊の主たる任務が敵との戦闘で有るのに対し、警察の主たる任務は住民の安全と秩序を守ることである。

平時にあっては武力を持つ二つの組織、軍隊と警察は日本の官僚伝統のセクショナリズムでしばしばいがみ合うことがあった。

だが、たった一人で島に赴任してきた安里巡査にとって自分の属する警察機構の上部のセクショナリズムに考えが及ぶことはなかった。

新任の安里巡査は、

島を取り囲む敵の艦船の前では全く無力であり、住民を守るためには赤松隊長の守備軍に相談する以外に打つ手はなかった。

島の住民の中では、村長、助役、校長等の有力者が島民をリードする立場にあったが、安里巡査も勿論このリーダーの1人であった。

ここで分かりにくいのは防衛隊員の存在である。

防衛隊員は現地招集の軍属である一方、村の助役や島民が兼任していた。

小さな島で島民と軍属の二つの顔を持つ防衛隊員という存在。

これが「集団自決」問題を複雑にしている。

防衛隊員は軍属として軍の陣地に出入りを許可されていたが、その一方で自宅には父として夫として頻繁に帰宅していた。

手りゅう弾を配ったとされる富山兵事主任がまさにこの防衛隊員だった。

次は渡嘉敷島に上陸して来ると言うので、私は慌ててしまった。防衛隊員は軍と一緒に仕事していたので情報はよく知っていた。その防衛隊員の人たちが敵は阿波連に上陸して
 赴任してまだ間がなく現地の情勢も良く分からない頃だったので、米軍が上陸して来たら自分一人で村民をどのようにしてどこに避難誘導をしようかと考えたが、一人ではどうする事もできないので軍と相談しようと思い赤松隊長に会いに行った。
 
赤松部隊は特攻を出す準備をしていたが艦砲が激しくなって出せなくなり、船を壊して山に登ったと言うことであったので、私は赤松隊長に会って相談しようと思いその部隊を探すため初めて山に登った。
 その時は大雨でしかも道も分からず一晩中かかってやっと赤松隊に着いた。その時、赤松部隊は銃剣で土を掘ったりして陣地を作っていた。私はそこで初めて赤松隊長に会った。

住民の避難誘導の相談
 このような状況の中で私は赤松隊長に会った。
 「これから戦争が始まるが、私達にとっては初めてのことである。それでの住民はどうしたら良いかと右往左往している。このままでは捕虜になってしまうので、どうしたらいいのか」と相談した。すると赤松隊長は、「私達も今から陣地構築を始めるところだから、住民はできるだけ部隊の邪魔にならないように、どこか靜かで安全な場所に避難し、しばらく情勢を見ていてはどうか」と助言してくれた。私はそれだけの相談ができたので、すぐに引き返した
 赤松部隊から帰って村長や村の主だった人たちを集めて相談し、「なるべく今晩中に安全な場所を探してそこに避難しよう」と言った。その頃までは友軍の方が強いと思っていたので、心理的にいつも友軍の近くが良いと思っていた。全員が軍の側がいいと言うことに決まり避難する事になった。から避難して行くときは大雨であった。
 私が本島にいた時もそうであったが、その頃は艦砲や空襲に備えてそれぞれ防空壕や避難小屋を作っていた。私が渡嘉敷に赴任する前から渡嘉敷島の人たちは、恩納河原に立派な避難小屋を作ってあった。
 私は恩納河原にこんな立派な避難小屋があることを知らなかった。避難して行ったところは恩納河原の避難小屋の所ではなく、そこよりはずっと上の方で、赤松部隊の陣地の東側であった。を出発したのは夜で、しかも大雨であった。真っ暗闇の中を歩いてそこに着いたときには夜が明けていた。その時の人たちのほとんどが着いて来ていたと思う。避難して来た人たちの中には防衛隊員も一緒にいた。(「沖縄県警察史」より)

軍官僚と警察官僚の対立で有名な事件に、昭和11年に交通信号をめぐって起きたゴーストップ事件がある。

だが、戦時中それも敵の上陸を目前にして日本の巨大組織の末端にいる赤松隊長と安里巡査はお互いの主任務を超えて住民の安全を守るため相談しあっていた。

日本の官僚組織の末端で任務に就く若い二人にとって、

「集団自決」はまことに不幸なめぐりあわせであった。

その時赤松大尉は25歳、安里巡査は29歳である。
   

■安里巡査を取材していた地元作家■

安里巡査の証言が「沖縄県警察史」に採録されたのは昭和63だが、それより約20年前に安里巡査に取材をしていた沖縄在住の作家がいた。

「集団自決」について独自の取材をした詩人の星雅彦氏は『潮』(昭和46年11月号)で次のように書いている。

「そこで安里巡査は、赤松隊長に向かって、村民はあっちこっちの壕に避難して右往左往しているが、これからどうしたらいいのかわからないので、軍の方で何とか保護する方法はないものか、どこか安全地帯はないものか、と相談を持ちかけた。 そのとき赤松隊長は次のように言った。 島の周囲は敵に占領されているから、だれもどこにも逃げられない。 軍は最後の一兵まで戦って島を死守するつもりだから、村民は一か所に非難した方がよい。 場所は軍陣地の北側の西山盆地がいいだろう。  そこで、安里巡査は、早速、居合わせた防衛隊数人に対し、村民に西山盆地に集合するよう伝達してくれと告げた。 彼自身も、各壕を回って、言い伝えて歩いた。 防衛隊の1人は、いち早くほぼ正確な伝達をした。 そして村長からも、同様の伝達が出た。 

それは人の口から人の口へ、すばやくつぎつぎと広がって広がって伝わっていったが、村民のあるものは、赤松隊長の命令といい、あるものは村長の命令だと言った」(「集団自決の真相」より孫引き)

安里巡査の昭和63年の証言と20年前に独自の取材をしていた作家星雅彦氏の取材とは一致しているし、元琉球政府職員照屋昇雄さん、渡嘉敷島「集団自決」の生き残り金城武徳さんの証言とも一致する。

勿論、赤松隊長は敵の攻撃から避難する場所の助言はしたが(これを軍の命令する人もいる)、

「軍の命令で集団自決をした」という証言はない。

4年前の2008年、比嘉(旧姓安里)喜順さんは94歳の天寿をまっとうされた。

重要証言者の死

 

「集団自決」を分かりにくくしているも一つの要因に関係者の名前が当時と戦後で異なっている例が多いことである。

例えば手りゅう弾を配ったされる富山兵事主任も戦時中は新城の姓であった。

安里巡査も戦後比嘉家に養子に行き姓が比嘉に変った。

「集団自決」に軍の命令はなかった」と証言する証人たちに取材する沖縄のマスコミは皆無である。

これは上原さんの原稿を掲載拒否した琉球新報の言論封殺と軌を一にする。

 

安里巡査を取材した本土新聞記者■

「世界日報」の鴨野記者が安里元巡査を取材した記録がある。

記録保存のため同記事を以下にコピペする。

月刊ビューポイント ■ダイジェスト版世界日報

沖縄戦「集団自決」から62年 真実の攻防

比嘉元巡査「地元紙一度も取材ない」

「軍の食糧、村民に与えた赤松氏」


戦火の渡嘉敷島で日本軍と住民との連絡役を任されていた駐在巡査、安里喜順氏(後に養子に入り、比嘉と改姓)。彼は赤松嘉次隊長の副官、知念朝睦氏とともに、当時を詳しく語ることのできる人物であり、存命ならば記者(鴨野)はぜひともお会いしたいと考えていた。

だが、知念氏や金城武徳氏からは「既に高齢であり、取材は難しいだろう」と告げられた。

別の関係者からは死亡説も聞かされた。しかし、比嘉氏の身近な人は、まだ元気なはずだと言う。

五月下旬、とりあえず自宅に向かった。家には誰もおらず、豪雨の中、二時間半はど粘ったが、会えなかった。ただ、近所の人から「お元気よ」という言葉を聞くことができた。夜、所在を確認できた。翌日、比嘉氏が入院中の病院を訪ねた。

古くからの友人である垣花恵蔵・わかば保育園理事長の姿を認め、比嘉氏の顔がはころぶ。


古くからの友人である垣花恵蔵氏(左)の見舞いに喜ぶ比嘉喜順氏
(沖縄県内の病院で)=5月30日、敷田耕造撮影

誕生日を聞いた。「大正四年四月二十九日です」。

「昭和天皇と同じ日ですね」と話すと、うれしげな表情を見せた。


二十分余りのインタビューで比嘉氏は、

「ただただ日本のためにと、生きてきました。何の心残りもありません」

「(沖縄戦のことについては)これまで自分が書いてきた通りです」と語った。


比嘉氏が昭和五十八年六月八日付で、衆議院外交委員会調査室に勤務し、沖縄問題を担当していた徳嵩力氏(当時六十一歳)にあてた手紙の内容を、

比嘉氏の子息の了解を得て、ここに公表する。

その日の沖縄タイムスには、徳嵩氏が赤松大尉直筆の手紙を同社東京支社に届けたという記事が掲載されていた。徳嵩氏は『鉄の暴風』を読み、赤松氏に事実関係を尋ねたところ、昭和四十五年十一月三十日付で返書が届いた。

その中で赤松氏は

「戦時中、現地の方々の献身的な御協力にも拘(かかわ)らず力足らず、あの様な結果になったことは沖縄で戦った者として現地の方々に申し訳なく思っている」と詫(わ)びている。

だが住民虐殺、集団自決への自身の関与については「一部マスコミの、現地の資料のみによる興味本位的に報道されているようなものでは決してありませんでした」と強く否定。

これに対して徳嵩氏は

「どうも後で理屈付けをした感があり、説得力に乏しい」「住民の証言の方が、より重みがあるし、軍隊は、その特性から、いつでも物事を正当化するものです」

などとコメント。

記事は、「赤松氏がどんな胸中で手紙をつづったかは、確かめるよしもないが日本軍による住民虐殺、軍命による集団自決という悲惨な事件が渡嘉敷で起こったことはまた歴史的事実である」と結んでいる。


比嘉氏はすぐさま、徳嵩氏に反論の手紙を書いたのである。

「私は当時の最初から最後まで村民と共に行動し、勿論(もちろん)自決場所のことも一々始終わかってをります。

あの集団自決は、軍命でもなければ赤松隊長の命令でもございません。

責任者として天地神明に誓ひ真実を申し上げます。


……『鉄の暴風』が発刊されてをるのも知らず、那覇の友人から聞かされ、それを見せられて驚いた程であります。その時には既に遅く、全国に販売されてをったようです。

それで一方的な言い分を聞いて実際に関与した而(しか)も責任ある私達に調査もされず刊行されたこと私の一生甲斐(原文のママ)の痛恨の極みであります。

沖縄タイムスの記者が私を訪ね、渡嘉敷島について調べられたことは今もって一度もございません」

比嘉氏は、捕虜となり収容所に入れられてそこで友軍の行動などを聞くのだが、それを聞いて改めて

「赤松隊長のとった行動は本当に良かった」と振り返る。

「敵の海、空よりの抱撃のさ中で、軍の食糧(米、味そ等)調味品を村民にも二分し与えて下さった、あの赤松隊長の志を、行動を、こんな隊長が大東亜戦争、沖縄戦の悪い代表扱いに掲載されることは本当に残念でなりません。

あの戦争は吾々日本人全体の責任と私は思って憚(はばか)りません」


そして徳嵩氏に、曽野綾子著『ある神話の背景』を読むようにと要望し、次のようにつづる。

「真実と云うのは両方の調査の上に立って表現するものでありまして、一方的に出してそれで何も知らない人々はそれを信じるよう(に)なり、大方はそんなものではございませんか。私はそう思います」

その十日後、比嘉氏は徳嵩氏からの手紙を受け取った。

「拝復 お手紙深い感銘をもって拝見いたしました」で始まる丁寧な返事だ。


彼は『ある神話の背景』を読み、

「如何に勉強不足であったかを改めて痛感させられた」

と率直に吐露。


比嘉氏の証言で真相に触れたことが「非常に幸いであり、また救いでもあった」と感謝を述べ、「機会がある度に、赤松大尉事件の自決命令は伝聞であって真実はこれこれであるというように訂正して参りたいと思っております」と告げている。

月刊ビューポイント ■ダイジェスト版世界日報

http://www.worldtimes.co.jp/ HPから日本初の電子新聞が読めます。 2007年 臨時増刊号

 

【おまけ】

石垣市民の読者より「慶良間で名のが起きたのか」⑤の掲載漏れのご指摘と感想文がありましたので、紹介押します。

⑤は昨日掲載したつもりでしたが手違いがありましたので、本日の最終回の前に急遽ふかして置きました。

<毎回、真実のドラマが掲載され、感動的なドラマでした。
上原さんご本人の語り口、僅かな時間ながらを直接知る者です。
「慶良間で何が起きたのか」、石垣島の八重山日報読者は
昨日の⑤稿、そしして本日の最終稿、すべて感動のうちに
読了しました。繰り返して述べますが、
毎回、真実を伝える感動的なドラマでした。


当時の、琉球新報の読者のお気持ち、原稿が中断されたお気持ちが
ほんとによく解りました


石垣島より

 

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