本能寺の変の黒幕については高野衆(高野山の真言宗勢力)を挙げる考え方も有るようです。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%89#%E9%BB%92%E5%B9%95%E5%AD%98%E5%9C%A8%E8%AA%AC
高野山黒幕説
天正10年当時、高野山攻めが行われていて、高野山真言宗門徒が畿内で信長に逆らう最後の勢力だった。本能寺の変によって攻撃は中止されており、変で利益を得た勢力の1つとして黒幕説がある[294]。
引用終了
高野衆が信長襲撃に直接部隊を送り込んだのかどうかはわかりませんが、黒幕ネットワークの一角として信長の居場所の情報提供などをしていた可能性は有ると言う意味で筆者も同感です。
この少し前、高野衆はそれまで信長の重臣、佐久間信盛を調略(つまり抱きこみ)する事にどうも成功していたように思えますが、それを信長に見破られたのか、次のようになります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%B9%85%E9%96%93%E4%BF%A1%E7%9B%9B
引用開始(一部抜粋)
佐久間信盛
天正4年(1576年)には石山合戦の一環であった天王寺の戦いで石山本願寺攻略戦の指揮官である塙直政の戦死を受け、後任として対本願寺戦の指揮官に就任。三河・尾張・近江・大和・河内・和泉・紀伊といった7ヶ国の与力をつけられた信盛配下の軍団は当時の織田家中で最大規模であったが、信盛は積極的な攻勢に出ず、戦線は膠着した。この間にも天正5年(1577年)の紀州征伐と松永久秀討伐(信貴山城の戦い)にも織田軍の部将として出陣している。天正8年(1580年)、信長自らが朝廷を動かし本願寺と和睦して、10年続いた戦に終止符を打った。この時点まで信盛は近畿の地に織田家中で最大規模の軍団を統括した。
同年8月、信長から19ヶ条にわたる折檻状を突きつけられて追放された信盛は、嫡男の信栄と共に高野山へと上った。その後、高野山にすら在住を許されずにさらに南に移動、佐久間家の郎党も信盛父子を見捨てて去っていった。高野山に落ちる時はつき従う者は2、3名、熊野に落ちる時は1名きりだったという。
引用終了
佐久間信盛の抱き込みがダメになり、追い詰められていよいよ信長から総攻撃を受け始めた高野山は崖っぷちに追い詰められた状況だったかと思われます。
そして高野衆では当時、中枢の一人に木食応其がいました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E9%A3%9F%E5%BF%9C%E5%85%B6
木食応其
高野山入り
天正元年(1573年)に38歳で高野山において出家し、宝性院の勢誉から受戒、名を応其と改めた[4]。小瀬甫庵の信長記では出家は25~6歳の頃であるとしている[2]。また高野山入山のおり、十穀を絶つ木食行を行うことを発願している。応其は「客僧」という立場であり、学侶や行人、高野聖とも異なる存在であった[5]。また密教大辞典では天下人から厚遇を受けた政遍からも戒を受け、仁和寺宮仁助法親王より三部の大法を受け、阿闍梨にのぼったとされている[6]。業績を重ねる一方で連歌の名手でもあり、里村紹巴と親交をもった。
天正10年(1582年)に織田信長が高野山攻撃を行った際には、応其らは小田原弥勒堂にこもり、太元法を修して信長の調伏に当たったとされる[7]。その最中信長は本能寺の変で死亡し、高野山攻撃は中止された[7]。
引用終了
そう、あの連歌会『愛宕百韻』にいた里村紹巴と親交が深かったようです。
では里村紹巴は本能寺の変の時、どのような役割をしていたのか?ですが、通常なら「信長を襲撃するように明智光秀を焚きつけた」と思ってしまいそうですが、個人的にはそうは考えていません。
本人がわかっていたのかどうかは別として、里村紹巴は明智光秀の動きや居場所を確認しその情報を流すように利用された事だったと思います。
信長を襲撃したグループはこの情報を直接か間接で入手し、明智光秀の目が届かない事を確認し、言わば光秀の留守を狙って信長を襲撃したものと考えています。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%89#%E9%BB%92%E5%B9%95%E5%AD%98%E5%9C%A8%E8%AA%AC
高野山黒幕説
天正10年当時、高野山攻めが行われていて、高野山真言宗門徒が畿内で信長に逆らう最後の勢力だった。本能寺の変によって攻撃は中止されており、変で利益を得た勢力の1つとして黒幕説がある[294]。
引用終了
高野衆が信長襲撃に直接部隊を送り込んだのかどうかはわかりませんが、黒幕ネットワークの一角として信長の居場所の情報提供などをしていた可能性は有ると言う意味で筆者も同感です。
この少し前、高野衆はそれまで信長の重臣、佐久間信盛を調略(つまり抱きこみ)する事にどうも成功していたように思えますが、それを信長に見破られたのか、次のようになります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%B9%85%E9%96%93%E4%BF%A1%E7%9B%9B
引用開始(一部抜粋)
佐久間信盛
天正4年(1576年)には石山合戦の一環であった天王寺の戦いで石山本願寺攻略戦の指揮官である塙直政の戦死を受け、後任として対本願寺戦の指揮官に就任。三河・尾張・近江・大和・河内・和泉・紀伊といった7ヶ国の与力をつけられた信盛配下の軍団は当時の織田家中で最大規模であったが、信盛は積極的な攻勢に出ず、戦線は膠着した。この間にも天正5年(1577年)の紀州征伐と松永久秀討伐(信貴山城の戦い)にも織田軍の部将として出陣している。天正8年(1580年)、信長自らが朝廷を動かし本願寺と和睦して、10年続いた戦に終止符を打った。この時点まで信盛は近畿の地に織田家中で最大規模の軍団を統括した。
同年8月、信長から19ヶ条にわたる折檻状を突きつけられて追放された信盛は、嫡男の信栄と共に高野山へと上った。その後、高野山にすら在住を許されずにさらに南に移動、佐久間家の郎党も信盛父子を見捨てて去っていった。高野山に落ちる時はつき従う者は2、3名、熊野に落ちる時は1名きりだったという。
引用終了
佐久間信盛の抱き込みがダメになり、追い詰められていよいよ信長から総攻撃を受け始めた高野山は崖っぷちに追い詰められた状況だったかと思われます。
そして高野衆では当時、中枢の一人に木食応其がいました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E9%A3%9F%E5%BF%9C%E5%85%B6
木食応其
高野山入り
天正元年(1573年)に38歳で高野山において出家し、宝性院の勢誉から受戒、名を応其と改めた[4]。小瀬甫庵の信長記では出家は25~6歳の頃であるとしている[2]。また高野山入山のおり、十穀を絶つ木食行を行うことを発願している。応其は「客僧」という立場であり、学侶や行人、高野聖とも異なる存在であった[5]。また密教大辞典では天下人から厚遇を受けた政遍からも戒を受け、仁和寺宮仁助法親王より三部の大法を受け、阿闍梨にのぼったとされている[6]。業績を重ねる一方で連歌の名手でもあり、里村紹巴と親交をもった。
天正10年(1582年)に織田信長が高野山攻撃を行った際には、応其らは小田原弥勒堂にこもり、太元法を修して信長の調伏に当たったとされる[7]。その最中信長は本能寺の変で死亡し、高野山攻撃は中止された[7]。
引用終了
そう、あの連歌会『愛宕百韻』にいた里村紹巴と親交が深かったようです。
では里村紹巴は本能寺の変の時、どのような役割をしていたのか?ですが、通常なら「信長を襲撃するように明智光秀を焚きつけた」と思ってしまいそうですが、個人的にはそうは考えていません。
本人がわかっていたのかどうかは別として、里村紹巴は明智光秀の動きや居場所を確認しその情報を流すように利用された事だったと思います。
信長を襲撃したグループはこの情報を直接か間接で入手し、明智光秀の目が届かない事を確認し、言わば光秀の留守を狙って信長を襲撃したものと考えています。