明智光秀が本能寺の変の首謀者ではないと思う理由はまだ有ります。
結論から言うとそれは明智光秀がアリバイ工作をしていなかった事です。
2017年11月28日の記事、サブタイトル「本能寺の変 明智光秀の連歌をどう解釈するか」で書きましたが、「ときは今 天(あめ)が下しる五月かな」と言うこの連歌は、「天」つまり天皇直轄地である石見銀山の管理代行権を信長様が「下さった」、とも解釈されるわけで、「いよいよ天皇直轄地の管理代行を任されるようになった」と解釈できなくもない、と筆者は見ています。
この記事では書きませんでしたが、光秀が「信長様が5月に鬨(とき)の声と共に兵を進軍させその後すぐに天下を御取りになる」とも解釈できるかも知れませんが前者か後者かははっきりわかりません。
いずれにしても明智光秀が信長襲撃を暗示させるつもりではなかったと解釈しています。
この連歌は1582年5月24日(或いは28日)に詠まれたと言われています。
それは6月2日に発生した本能寺の変から何日か前にあたり、この連歌が詠まれた時から日数で4日か8日以上は有ったわけで、仮に光秀が本能寺の変を考えていたのなら、信長襲撃とも解釈される可能性が有る連歌など詠まずに、寧ろ逆に「どう解釈しても信長襲撃を意味するものとは思えないような表現にするはず」ではないかと考えています。
そうアリバイ工作をしたはずです。
この歌が光秀単独で詠まれたもので当時誰も知らず、後になってそれが発見されたと言うならまだ信長襲撃を考えていた可能性も有るのかも知れませんが、この連歌には明智光秀の他に、明智光慶、東行澄、里村紹巴、里村昌叱、猪苗代兼如、里村心前、宥源、威徳院行祐が連歌を詠んでいただけでなく、茶や食事の用意などで他にも何名かいたはずなのです。
信長襲撃とも解釈される表現をしてしまうとこのうちの誰かが信長に通報する可能性は多少とも有ったはずなのに、知略に長けた光秀がそのような愚考はしないのではないでしょうか。
実際には信長はこの連歌は信長には通報されなかったか、或いは通報されても信長は光秀による信長襲撃とは解釈しなかったから本能寺で討たれたと考えています。
それは何を意味するかと言えば、「光秀は出雲石見へ国替えされる事に非常に満足していた」と信長も連歌の会にいた参加者なども考えていたからだと見ています。
そして明智光秀自身も信長襲撃などするつもりは全く無かったからこそ、解釈次第で信長襲撃ともとれてしまう連歌を詠んだ、と言うのが個人的と言う程度に過ぎませんが筆者の見方です。
明智光秀は信長を襲撃するつもりなど無かったからこそ、信長襲撃計画を隠すアリバイ工作をしなかった。
そしてもしかすると信長襲撃の首謀者はこの連歌の場にいた誰かからこの連歌の内容を聞き、「信長襲撃は光秀が首謀者だったようにすり替えてしまおう」と思いついたのかも知れません。
光秀はこの連歌を信長襲撃グループに悪用されたと言う可能性は十分に有るとも考えています。
結論から言うとそれは明智光秀がアリバイ工作をしていなかった事です。
2017年11月28日の記事、サブタイトル「本能寺の変 明智光秀の連歌をどう解釈するか」で書きましたが、「ときは今 天(あめ)が下しる五月かな」と言うこの連歌は、「天」つまり天皇直轄地である石見銀山の管理代行権を信長様が「下さった」、とも解釈されるわけで、「いよいよ天皇直轄地の管理代行を任されるようになった」と解釈できなくもない、と筆者は見ています。
この記事では書きませんでしたが、光秀が「信長様が5月に鬨(とき)の声と共に兵を進軍させその後すぐに天下を御取りになる」とも解釈できるかも知れませんが前者か後者かははっきりわかりません。
いずれにしても明智光秀が信長襲撃を暗示させるつもりではなかったと解釈しています。
この連歌は1582年5月24日(或いは28日)に詠まれたと言われています。
それは6月2日に発生した本能寺の変から何日か前にあたり、この連歌が詠まれた時から日数で4日か8日以上は有ったわけで、仮に光秀が本能寺の変を考えていたのなら、信長襲撃とも解釈される可能性が有る連歌など詠まずに、寧ろ逆に「どう解釈しても信長襲撃を意味するものとは思えないような表現にするはず」ではないかと考えています。
そうアリバイ工作をしたはずです。
この歌が光秀単独で詠まれたもので当時誰も知らず、後になってそれが発見されたと言うならまだ信長襲撃を考えていた可能性も有るのかも知れませんが、この連歌には明智光秀の他に、明智光慶、東行澄、里村紹巴、里村昌叱、猪苗代兼如、里村心前、宥源、威徳院行祐が連歌を詠んでいただけでなく、茶や食事の用意などで他にも何名かいたはずなのです。
信長襲撃とも解釈される表現をしてしまうとこのうちの誰かが信長に通報する可能性は多少とも有ったはずなのに、知略に長けた光秀がそのような愚考はしないのではないでしょうか。
実際には信長はこの連歌は信長には通報されなかったか、或いは通報されても信長は光秀による信長襲撃とは解釈しなかったから本能寺で討たれたと考えています。
それは何を意味するかと言えば、「光秀は出雲石見へ国替えされる事に非常に満足していた」と信長も連歌の会にいた参加者なども考えていたからだと見ています。
そして明智光秀自身も信長襲撃などするつもりは全く無かったからこそ、解釈次第で信長襲撃ともとれてしまう連歌を詠んだ、と言うのが個人的と言う程度に過ぎませんが筆者の見方です。
明智光秀は信長を襲撃するつもりなど無かったからこそ、信長襲撃計画を隠すアリバイ工作をしなかった。
そしてもしかすると信長襲撃の首謀者はこの連歌の場にいた誰かからこの連歌の内容を聞き、「信長襲撃は光秀が首謀者だったようにすり替えてしまおう」と思いついたのかも知れません。
光秀はこの連歌を信長襲撃グループに悪用されたと言う可能性は十分に有るとも考えています。