快気分析

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仕組みとアプローチ -  家康が明智十五郎らと上総土岐氏を救い出したとする可能性

2018-10-31 22:56:15 | 明智光秀
 今日書いた前回の記事にも関連するのですが、明智光秀が土岐氏で、その分流が上総土岐氏であり、その上総土岐氏が居城としていたのが万喜城(現在は万木城と書かれています)です。
 万喜城とその周辺を所領とする上総土岐氏は北条方についていたため秀吉の北条征伐の後、攻められる事になるのですが、状況は次の通りです。

引用開始 2件(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%B2%90%E6%B0%8F#%E4%B8%8A%E7%B7%8F%E5%9C%9F%E5%B2%90%E6%B0%8F

上総土岐氏

万喜城に拠ったため万喜土岐氏とも呼ばれる。上杉氏の惣政所職として常陸に下った土岐原秀成は伊南荘を時政に任せ万喜城城主とした。原頼元は土岐宗家より9代守護土岐政房の弟、土岐頼房を迎えた。頼房の孫、土岐為頼は、房総の覇権をめぐって里見氏と後北条氏とが対立するなかでたくみに身を処し勢力を維持したが、為頼の死後、土岐頼春(義成)の代に小田原征伐が勃発、頼春(義成)は後北条氏方に与したために滅亡し城は消滅した。
土岐頼春から大垣藩万喜氏、畑中氏、茂木氏、太海氏が立家した。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E5%96%9C%E5%9F%8E

万喜城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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万喜城(まんぎじょう)は、上総国夷隅郡(現在の千葉県いすみ市万木)にあった日本の城。万木城・満喜城・万騎城とも表記された。
(中略)
具体的な活動が知られるのは土岐為頼の頃からで、為頼は里見義堯と婚姻関係を結んでいたが、第二次国府台合戦で里見氏が敗北すると、後北条氏と結んで離反し、以後一貫した北条方となった。このため、万喜城周辺はしばしば里見氏や上総武田氏の侵攻を受けた。特に土岐頼春(為頼の子)の代の天正16年(1588年)から同18年(1590年)にかけて里見氏による3度の攻勢が行われるが、いずれも土岐氏の勝利に終わっている(「万喜・長南合戦」)。だが、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐においては北条氏に味方したことから、本多忠勝率いる徳川軍に攻め落とされ、米蔵跡と推定される場所からは焼米が出土されている。

小田原征伐によって土岐氏は滅亡し、万喜城も廃城になったと考えられてきたが、近年になって本多忠勝が大多喜城に入る前に一時的に万喜城を居城としていたことを示す文書[2]の存在が知られるようになり、実際の廃城は忠勝が大多喜城を居城としていることが確認される天正19年(1591年)頃とみられている[3]。

引用終了

 秀吉直属の部隊が攻め落としたのではなく、家康のそれも懐刀のような存在の本多忠勝が・・・ですか。
 秀吉の方針で家康が渋々北条征伐に参加せざるを得なかったのは有名ですが、北条方であった、しかも明智光秀の土岐氏の分流である上総土岐一族を家康が自刃に追い込むとは思えません。
 「土岐頼春 落ち延び 三河」で検索するとわかるのですが、土岐頼春は三河に落ち延びたとする説も有るようで、家康は本多忠勝を使って秀吉の監視をかいくぐりながら何とか土岐氏を落ち延びさせ、(ここからは個人的な見方となりますが)この時に上総土岐氏に身を寄せていた明智光秀の子(明智十五郎)らも家康が救出した可能性が高い、と見ています。
 万喜城(現在は万木城)には行った事が有りますが現在の建物は鉄筋コンクリートで近代建築のもののようですが、ここに至る道や周囲の川などの状況が当時はおそらく要塞に近いものだっただろうと思わせる面も有ります。
 東京オリンピックのサーフィン会場である一宮町の海岸から万木城はそう遠く有りません。
 




仕組みとアプローチ -  相模トラフ関連の巨大地震は近いのか 千葉県の海岸段丘が示す事

2018-10-31 18:53:52 | 地震 津波
 関東大震災、元禄地震など相模トラフ関連の巨大地震ですが、こんなデータも有るようです。

引用開始(一部抜粋)

https://www.gsj.jp/data/chishitsunews/05_01_04.pdf#search=%27%E5%8D%97%E6%88%BF%E7%B7%8F%E3%81%AE%E6%B5%B7%E5%B2%B8%E6%AE%B5%E4%B8%98%E3%81%8C%E8%AA%9E%E3%82%8B%E6%98%94%E3%81%AE%E5%A4%A7%E5%9C%B0%E9%9C%87%E3%81%A8%E5%9C%B0%E5%A4%89%EF%BC%883%EF%BC%89%27

地質ニュース605号,12―14頁,2005年1月
Chishitsu News no.605, p.12―14, January, 2005

海岸段丘が語る過去の巨大地震

(中略)

6.くりかえす大地震 その将来予測
最後に第5のパネルでは,房総半島南部の海岸段丘を詳しく調べることにより,震源となった海底の断層の位置や,いつ,どの震源で地震が起こっていたのか,年表を作成して説明しました.
1回の地震で1 段の段丘が形成されるとすれば,その数とそれぞれの年代を調べれば,昔の地震の歴史がわかります.第5 図は地震が起きた時代と隆起量を示す年表です.大正タイプの地震は,平均して少なくとも 4 0 0 年 間 隔 で 起 こり,そ の 数 回 に 1回の割合(平均2,300年間隔)で,元 禄 タイプ の 地震が起こっています.最後の地震は約80年前に起きているので,
どうやら今すぐ関東大地震が起こる確率は低そうです.

引用終了

 従来と同じパターンが今後も続くのかどうか、と言うのは判らないのですが従来のパターンが続く限りと言う仮定ならばに限ればですがまだ相模トラフ関連の巨大地震はまだ当分先のようです。
 千葉県はこの海岸段丘だけでなく、チバニアン、東京オリンピックの一宮町サーフィン会場など見所は多いような気もします。
 当ブログでは歴史ジャンルで明智光秀関連の記事も書いていますが、一宮町の有る上総では戦国時代に「上総土岐氏」が繁栄していたようです。
 個人的な見方に過ぎませんが、明智氏の土岐一族や光秀の家臣ら一部が落ち延びて行ったとすれば、本能寺の変当時は強かった「上総土岐氏」を頼って上総に辿り着いた可能性は少なくないと考えています。
 実際には当時「上総土岐氏」の所領ではなかったようですが隣接する市原市不入斗には明智光秀の嫡男十五郎そして十五郎の妻ツ子(つね)の墓と言われているものがある様です。