マグマが噴出しているように見える。
そして、怒れる人がいる。
怒りのエネルギーが、爆発しているようだ。
この絵は、サイズの小さい作品で11cm×10cmぐらいの大きさ。
この絵は、小さいのですが、武内のアトリエでよく見ていました。
机の上をあっちこっちよく移動していて、置く場所が変わっても
色と画風にインパクトがるので、目に付く作品。
「いったい何だこれは?」と悩ませる作品が多い武内ですが、
わりとストレートな絵柄だと思い取り上げました。
あちこちの机に絵が散らばっています。
↓こんな風に
右にある小さい絵も、上記の作品とほぼ同じ大きさ。
左は、描きかけの絵のようです。
右の上にある、青が使われている小さな絵を武内が持ってきた。
「さほり、これどう?」と。
私は、「なんか、赤い口があるから顔に見えてしまって、怖いよ。」
「顔に見えないほうがいい。そうしたら風景みたいなのに・・・。その方が好き。」
「赤い口の部分を隠して見たらホッとするわ。」と、つい言ってしまった。
いい所を見つけて、褒めるように心がけているが、つい口が・・・・。
しまった!と思ったが、武内はすぐアトリエに、フイルムが逆回転するように引っ込んでいった。
傷ついた心を立て直してるのかもしれない。
画家が身近な人に絵を見てもらいたがるのは、天分なので自然なこと。
しかし、見せられる方はどういう反応をしたらいいのか、悩む時があります。
ピカソの伝記を読んだことがありますが、ピカソも同じようなことをしていたらしい。
ピカソの娘(子供の頃)が一緒に住んでいた頃、毎日作品を見せられて感想を聞かれたという。
その娘は、一緒にいたらずっとこれが続くのかと思い、離れて暮らす決意をしたとあった。
絵を見せ続けられて、毎日、意見聞かれることに苦痛を感じ、これが続くのか・・・という
恐怖から家を出たという。
他の事では、妻であったフランソワ・ジローも毎日の事として、
ピカソに「私は老いぼれで、もうだめだ。もう絵を描く才能もなくなって、終わりだ。」と言われていた。
フランソワ・ジローは、
「あなたは、まだまだ若々しいし、素晴らしい才能を持っている。これからよ。」と
言い、毎朝、慰めていたという。
そして、ピカソは立ち直り絵に向かう。
これが、毎日続くらしい。
フランソワ・ジローも疲れたようで、
「もう、私は老いぼれで、もうだめだ。」と聞くと、
「じゃあ、死んだら?」となり、
「もう、私には才能がない。」と言われれば、
「それがどうかしたの。」
と、そっけない態度になり、ひとり瞑想にふけっていたらしい。
その後、家を出ていくのでした。
(若い芸術家の元へ。この変はフランス人らしい感覚である)
私は家を出ないけど、この感じ、凄くわかる。
身に覚えがある感覚です。
ヒロクニさんもこんな感じになる時があります。
(芸術家って、皆こんな感じなのか?)
「俺は、もうだめなのかな・・・。」と言い、
「絵を止めようと思うのだけど、さほりはどう思う?」って聞きます。
一応、慰めたり励ましたりするのですが、何度も言うので、慰める方も大変で気力がいる。
だから、疲れるのだろうなと、フランソワ・ジローのことを思いました。
似たような事では、
若い頃(私28歳)、ヒロクニさんから、「山に入る。そして・・・。」と、言われた話があります。
その深刻そうな顔の表情から、そして・・・・の後の言葉は?
と、思い、それって死なのか?と。
「山に入る」ってどういう事?と、戸惑っていた。
何度も、何度も言うので、とても心配してしまったことがあります。
とにかく、人生経験が浅いので、どうしてそんなことを言うのだろうと思い、
非常に悲しく、私の中で不安が大きくなり、心細い気持ちになったものです。
心がずきずき痛み、悲しくなった。
とにかく、毎日言うので、疲れてしまって、しまいに、
「そこまで言うのだったら、山へ行ったらいいと思うよ。」と、優しく言ったのです。
しょうがない。
そうしたいのでしょう。
もう、止めないと。
“えっ”という顔をされて、なんか風向きが変わってしまったという顔をされました。
この辺から、妙な力強さが私にみなぎり、強気になってきて、続けて私は言った。
「山へ入ったらいいと思うよ。」と、私。
「どこの山に行こうと思っているの?」
「山へ入ってから、死を考えるのなら、まず山へ行かないといけないね。」
「それから、どうやって死ぬか考えるわけだ。」
「死ぬかどうかは後で考えるとして、とりあえず山へ行ってこいよ。」
(急に、言葉使いが変わる私)
「なあ、とりあえず山へ行って来いよ。待っといたるから。」
(姉御になる。その上、オヤジ言葉に。)
ここからは、「早く、山に行って決着をつけないと。」と、急かす。
ちょっと武内が落ち着いて座っていても、
「早く、山へ行って決着をつけないと。なにしてるの?」
「とりあえず待ってるから。」と何度も言う。
ジーとしている、武内を見ると、
「山、行って来いよ。」を連発。
急に方向転換したのか、「山へ入る」と言わなくなっちゃった。
私が思うには、甘えていたのでしょうね。
こういうのは、心の駆け引きのような所があるので、
ある程度甘えたら、さっさと立ち直らないといけないと思うのですが、
さっさとしない人は、「そうすれば・・。」って、言われるのだと思います。
しかし、画家本人から、絵の感想を聞かれるって疲れるものなのです。
正直に言えばいいと思いますが、そこが難しい。
それをヒロクニさんの友人に相談したことがあります。
「奥さんは、褒めてた方がいい。」と言われました。
それは、道理であると思い、まるで分らない作品でも、いい所を褒めようと努力しています。
いつも私好みな絵というか、私の捉えられる範囲の絵だといいのですが、
枠を超えられると、言葉がいつも出てきません。
これが苦悩の元なのです。
フランソワ・ジローのように、
私は、家を出て行かないけど、
座禅(瞑想)は、するようになってしまったのでした。
そう、毎日15分座っています。
妻の苦悩の話は続くですが、庭にはすっかり秋の気配が。
↓周明菊が咲き始めました。つぼみがたくさん付いています。
↑今年は雨が多かったせいで、周明菊の根が勢い良く広がっていたよう。
里芋の後ろでたくさん咲きそう。
↑ビオラの種まきの様子。
↑ビオラの芽。
この種は、私だけのクロームイエローとグレーが出る、ビオラ。
今年も同じものが咲くのかどうか分らないので、毎年ドキドキします。
↑今年は、柿がたわわになっています。
数多くなっているせいか、小ぶり。
柿は、寒くなってから採れる柿の方が、甘いようです。
寒さにあたってからの柿の方が、甘みが増すことを知りました。
自然って、うまく出来ています。
今回の絵は、色使いがいいですよね。赤、紫、ブルーがこんなに調和している作品は、あまりないと思います。ヒロクニさんの色使いには、私はいつも脱帽しています。また、絵柄にもあっていて、いいなァ~とと。同感です。
「山に入る・・。」は、未だにその真意は分りません。それを言っている頃、「ヒロは、極北なんよ。」とも言っていて、これも意味が分らなかった。この意味のわからない、なぞなぞのような言葉を私なりに極解して、「とりあえず山に行こうか。」という流れにもっていけたのは、私のどうしよう・・・、という気持ちが極限にいけたからかもしれません。しかし、言葉の意味は未だわかりません!
バンドでギターを弾いていたなんて驚き。私は、音楽は聞くだけで、演奏するのも歌うのも全くダメなので、すご~い!と驚きです。ヘビーなロックなんて・・・。やっぱり、ロック好きなヒロクニさんとも共通するところがあるのだと思いました。そして、彼から聞かれていたのですね。感想を。ともりんの、彼が成長するように有益な言葉を選んで言っていたなんて、なんて思いやりが深いのだろうと思いました。それが、難しいし、言う方は心の中で自問して、言葉を選んでいる過程があるから大変なんだよね。また、相手は傷ついたりして不機嫌になるという・・・。しかし、芸術系の事をする人は、自問自答では飽き足らなくて、人に聞くのでしょう。その方は、傷つきやすい人だったでしょうか?ヒロクニさんは、傷ついても立ち直りが早いのでやっていけているような・・・。ともりんと同じ思いで、感想を言っていると思いました。大変だったね。しかし、ともりんの多彩な一面を新たに知って、驚くと共に、ワクワクしました。
周明菊は、だんだん多く花を咲かせそうで楽しみにしています。
ネットでこんな交流が持てるようになったのは、いいことですよね。あと、ある程度のことは簡単に調べられるようになったので、何かを学ぶというのもやりやすくなって、いい使い方をすれば、とても有益なものだと最近感じています。ヒロクニさんは、ネットを敬遠していますが・・・。マウスを持つ手が、逆立ってますから・・、トホホ。
秋を堪能したいと思いつつ過ごしています。
ともりんにもいい秋になりますように。
コメントありがとうございます。
何色に近いのかな?と色辞典を見てみましたが、近い色がありません。近いのはシアンが濃いブルーなのでしょうか。宝石で似たような色があるかな?と調べましたが、やはりちょっと違います。
深くて澄んでいながらネオンの発色を持つねっとりした美しいブルー。この作品は使われているすべての色が感動する色です。背景の紫たちが、また美しいです。この造形と色、見ているとぞくぞくしてきます。
山に入るお話、何度も読み返しました。ヒロクニ先生の真意はなんだろう?と読み解きたかったからです。
でも、感覚として納得したのは、画家の奥様としての、さほりんの強いちからと感情でした。強くてりりしくて、姉御でオヤジ。多分、そのときのヒロクニ先生が必要としていたものではないかと思いました
そういうことを全身で表現する、さほりん。感動です。さほりん以外の誰もできないです。
画家本人から絵の作品を聞かれるということを読んで、ちょっと自分の経験を書いてみます。
学生時代、私はバンドでギターを弾いていて、ライブハウスなどにも出ていました。音楽のジャンルは、なんというか、そこそこにハードでヘビーなロックな感じでした。
お付き合いしていた彼氏もバンドでギターを弾いていて、私よりずっとずっと上手で真剣にバンド活動をしていました。
その彼氏がいつも「今日のライブはどうだった?僕のギターはどうだった?」と聞いてきたことを思い出しました。
「一般の耳ではなく、同じようにギターを弾いているあなたはどう思った?正直な感想を聞きたい」というオーラが全開で、毎回言葉を選びながら感想を言いましたが、やっぱり意に沿わない感想のときは悲しくなったり不機嫌になったりしました。
一般のファンはみなさんほめてくれる。でも本当はどうなの?でも否定されるのは心にしんどい。そんな感情を想像しながら、かつ、彼がギタリストとして成長するのに有益な言葉を発したい、と考えて感想を言っていました。
これを何回も何年も続けていくのは、しんどいです。画家の奥様はこれが一生続くのだと思いました。さほりん、えらくてすごいです。作品は、画家とその奥様の精神の戦いによって生み出されていくのだと思いました。
周明菊の開花が楽しみな感じの成長っぷりです。そして、やはり一番楽しみなのは、さほりんのビオラです。芽だけを見ても、想像した花の色を想像してわくわくします。
文章だけのやり取りでも感覚を共有したり、違うことを刺激として感じます。その感覚は新鮮です。
ブログを読んで考えたりYouTubeを見たり音楽を聴いたりすると、さほりんの文章に「はっ!」とすることが多々あります。直接会えなくても、感覚の刺激と共感があることに驚きます