爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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11年目の縦軸 38歳-18

2014年03月03日 | 11年目の縦軸
38歳-18

 言葉で気持ちを確かめ合うようなことは徐々に減った。

 はっきりと突き詰めれば、ぼくは絵美の気持ちの奥底を知らなかった。かといって無関心でもなく、嫌われていないことは感じている。当たり前だが。それは言葉を多用することでいま以上に明瞭にすることでもなく、わざとくもりガラスの向こうに置いて不鮮明にしておきたい訳でもなかった。ぼくらは大人になり、なんとなく経験上、こういう場合はこういう態度で間違っていないのだろうと大まかな円の範囲内の所在で判断した。中心は射ていないが、点数をもらいそびれるほど外れてもいない。だから、いっしょにいるのだ。もちろん、いっしょにいるのは不快ではない。幸福により近い。

 鮮明にしたところで、どう変化をもたらすのだろうか。鮮明は輝きに通じ、その反面、小さな傷や微小なほこりを浮かび上がらせるだけだ。メリットという言葉を持ち出すのは不似合いな感じもする。ぼくのこころはメリットや得という基準で動かせるものでもない。その方が、のちのち生きやすいのだろうが、誰を好きになるのかの選択など、好都合、あるいは不都合だけでは決められない。するひとも確かにいるのだろうが。

 ぼくは忙しい仕事と仕事の間のぼんやりとした時を、ためらいもなく、近い未来と遠い過去を思いめぐらせる私事に充てる。すると、注意を喚起するように電話がなる。業務に多少、変更があったとはいえ、ぼくは絵美と会話することもまだあった。この電話の主は絵美であるということが分かることもあった。期待というものが含まれているからかもしれず、その時間帯によるのかもしれない。まぐれや勘などというもの案外、そういう大まかな認識に頼っている類いのものかもしれなかった。

 ぼくらは仕事の伝達を終え、最後に小声で待ち合わせの確認をする。近いビルにいることは分かっている。トイレにいくときなどすれ違うこともない代わりに、昼食をたまにいっしょに食べた。彼女は用があって、きょうは午後からの出勤だった。健康診断をするとか言っていた。その為にきのうの夜から食事を抜いていたらしい。その空腹分を今夜とりかえすとも言っていた。一日で飢えることもない。しかし、腹がなる女性というのもあまり見かけなかった。

 店の選択肢もいくつかある。目を皿にして探し回れば、それこそ無数にある。だが、ぼくらは似通ったものに惹かれる傾向もある。だから、いくつかの店と場所を並べ、そこからトランプを引くように絵美が選んだ。

 絵美の身体はレントゲンに撮られる。ぼくへの愛情がそこに写って明らかになったら医者はどう解説するのだろう? 「陽性です」か、「悪性かもしれません。再検査に来てください」とでも告げるのだろうか。絵美はほっと安堵したり、心配顔でスケジュールの日が来るのを待ち遠しく感じる。悪性なので切除が必要です、と言われて泣く泣く受け入れる。ぼくは寄生をやめる。

 ぼくは仕事が終わるまで、その想像をもてあそんだ。ぼく自身は健康のありがたみを当然のこととしている。絶望的な痛みを日常的に感じることもない。病気というのはつまりは痛みのことらしい。慢性になると容貌にもあらわれ、どこかで健康な生命体にのみ潜む「気」のようなものが発散されにくくなる。くよくよしているひとは、心配や同情をされる表情を演技ではなくしている。元気がない。辛そうである。ぼくは二十年以上も前にある女性を失って、そういうケースとして自己で診断したが、もうあれとも別人の如くになってしまった。もちろん、もとの状態にもどって後悔しているわけでもないが、身体の組成はかわった。大きな反省というものを一度、通過した身は、もう無邪気な少年を永久に失うことになった。遅かれ早かれ失うものであるが、あれがきっかけではなくてはならない理由もどこにもなかった。

 ぼくは絵美と食事をしながら前半部分までを伝えた。彼女の食欲は痩せた身体からは想像できないほどあった。すべて聞くと、彼女はブラウスのいちばん上のボタンを指でひっぱり、胸元のなかをのぞきこむようにして自分の皮膚をながめた。

「写ってないみたいだね。肉眼では不確かだけど……」
 と、ぼくの説にのった。
「骨の後ろにまわったから」

「じゃあ、わたしもそこにいる?」と言って、彼女は手を伸ばし、ぼくのネクタイをめくった。そこにあるのはネクタイの裏側のタグだけだった。

 ぼくらはなぜ、相手が胸のなかにいるという表現をつかうのだろう。記憶するのも、考えるのもすべては頭のなかのことだった。だが、結果として呼吸が乱れたり、胸の鼓動が早まったりする。どこかで指示されてのことだろうが、自分はそういう作為のスイッチをまったく押してもいない。

 この吐息の乱れがぼくの好意の証拠であり、絵美がじっとぼくを見つめるその瞳を独占していることが彼女の気持ちを確かめるうえでの正当さだろうか。ぼくの耳は、もっと違ったものを聞きたいとも思っているが、はっきりとしたものなどもう必要ないとも考え、ある面では避けようとしている。中心にあたることなど、ゲームとしてもまれであれば、本番ではもっとむずかしくなる。周辺にあれば、それはぼくのものである。彼女にタグなどつけられるわけもないのだし。