爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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11年目の縦軸 16歳-21

2014年03月19日 | 11年目の縦軸
16歳-21

 ぼくの専心と、ぼくの憧れはこころのなかで並列上にある。共存している。だから、憧れについて話す。

 同級生の女性の姉として彼女は登場する。ぼくは素敵だなと思いながらも、恋する対等の立場にいないため浮気にあたらないと認識している。それはデザインの優れたバイクに対する憧憬に似たものであり、華麗な技能を披露するスポーツ選手に向ける熱い視線と同じものだった。ぼくらは間近で同じ空気を吸いながらも、見えないカーテンが間をふさいでいた。

 ぼくらは友人たちと缶コーヒーを飲みながら、その姉と話す。ぼくらは自分ひとりのものにならないことを痛いほどに知っている。そして、それほど切羽詰まった感情も抱けなかった。ぼくらには資格もなく、権利もない。それに値するのは数才だけ年上の先輩たちの身にあった。ぼくには兄という防波堤があるため、自分の好みとは別に年上の女性たちを恋する相手と想像することができない。彼女たちは兄の世代の領分であり、海里を越えた場所に漁にいけないのと同じことだった。密輸や密猟、密貿易。そのグループ内に女性たちもいた。

 しかし、ぼくはひとりの相手で充分だった。正直にいって恵まれすぎていた。ぼくは彼女と話すときに同じような気楽さを有していたのだろか? 年上の気さくな女性に接するときみたいに。

 緊張して腹が痛くなるようなことはない。好かれたいという気持ちが前面に立って、素振りが自然さを奪われギクシャクするようなこともない。彼女も同じ程度にリラックスしているのだろうか。

 友人たちの幅が大々的に変わるような年頃ではない。ぼくは彼らとともに成長し、同じ段階を踏んでいった。スポーツというものにあきらめをつけ、優秀な学問の履歴を重ねることももうできない。親の影響下にいることは既に終わりに近づき、かといって自活するにはまだ早過ぎた。ぼくはなるべき自分を見つけるのにも早く、探すことすらしていなかった。経済の動向に一喜一憂するのにも未経験だった。飢えや貧困はもうこの国から撲滅したように思える。みな、それぞれの仕事があり、それぞれの銀行の口座があった。

 ぼくはバイト代を手にする。月々の支払に追われるようなこともない。携帯電話が若者にも、普通の大人にも流通していなかった。ぼくは彼女の喜びそうなものを考える。ぼくは彼女の似合いそうな洋服を思い浮かべる。だが、具体的なサイズなど一切しらない。見当があるだけだ。見当というのはなんとあやふやな言葉であり、指摘だろう。似合う色。似合うデザイン。ぼくは、彼女をそれほど客観視しても良いのだろうか。いつか、同一なものになるはずなのに。

 同級生の姉の長い脚。小さなお尻。細いズボンが身を覆っている。

 その姉はあるとき、男性のYシャツのことをブラウスと言い間違えた。ぼくの彼女も同じことを言った。ぼくはからかう。男性はブラウスなど着ないのだ。だが、その間違いこそ彼女たちの可愛さの源だった。

 間違いというのは、特に認識の欠如という大げさなことではない。ただ、自分が日常的に使用しているものに置き換えただけのことなのだ。男女によって呼び名が変わる。立場によっても呼び名が変わる。ぼくは同級生の姉を決して名前で呼ばない。それほどの気安さはぼくらにはない。誰かの姉という立場は決してくずされない。幼い子どものパパやママと同じような互いのスタンスや役割としての土台によって。

 ぼくらは親しみによって呼び名を変える。あだ名というものがあって、名前の簡略化もある。そんなに親しくないと苗字で呼び、その苗字が親しさを増したとはいえ恒久化することもある。ほかに思い当るあだ名も見つからない場合は。

 あだ名になりやすい名前もある。下の名前で呼びかけられやすいひともいる。他人はその呼び名で関係性の度合いや深さを想像する。ほとんどのケースは間違っていないが、もちろん、まったく間違えないということも世の中にはない。

 ぼくは幼いときからの呼ばれ方があった。名前を短くしたもの。ぼくはその響きが気に入っていた。家族もつかう。ある日、彼女は手紙で、わたしも親しみをこめて早くそれを使いたいと書いていた。だから、当時はまだ呼ばれていない。でも、目の前にいるひとには、特別、名前を使わなくても、ねえ、というような簡単な指示の言葉で用は済んだ。ぼくも彼女を名前でもあだ名でも呼んでいなかったように思う。

 いつか変わるかもしれない。変える必要も、もしかしたらないのかもしれない。みな、どうしているのだろう? ぼくは友人たちに訊いてもいなかった。ただ、適当な誰かが目の前にいた場合に様子をうかがった。

 親しくなるべきタイプのふたりもいた。どうして、このふたりはいっしょにいて違和感を与えるのだろうという疑問が起こることもあった。当人たちの関係に影響はないだろうが、その不自然さが際立つことも確かにあった。

 ぼくと彼女はどうなのだろう? 歩く。ぼくの手は彼女の手をにぎる。にぎりやすい場所にある。ぼくは腕を組んでもらう。それはぴったりと感じられるものだった。ここでも、やはり名前という互いの存在を明確に区別する名称は必要ないのかもしれない。ぼくらは自分たちのことを話しているのであり、他人を話題にするときにだけ、ある名称を持ち出せばよかったのだ。それ以外は、ふたりだけが息をする世界だったのだ。一方的な断定によれば。