爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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11年目の縦軸 27歳-20

2014年03月15日 | 11年目の縦軸
27歳-20

「ね、ここで、強く、抱きしめて」と希美はひとことずつ区切るようにして言った。場所は観覧車のなかだ。晴れの一日をもたらした太陽はもう沈みかけている。

 その円を時計で例えるならば、ぼくらは十五分あたりにいた。これも時計と合わせるならば反対周りで頂上に行き、針の三十分付近で地上に降りる。針は長短の二つはなく、ひとつだけ。ぼくは五十五分あたりまでその要求通りにしていた。

 希美の肩越しに視線を外に向けると、飛行機が空中にあった。ぼくらと同じ高さぐらいに高速でただよっている。それは象徴的にひとつの命のようだった。シンボリックな唯一の生命体。だが、そのなかに数百の異なった命を内在させている。ぼくが今後も会いもしない、好きにもならないひとたちの集合体。ぼくはひとりか、多くてもふたりしか好きになることができないだろう。きっと。ぼくらは下りはじめた箱のなかでゆっくりと離れ、また固い椅子に向き合ってすわった。

 ぼくは過去のある日、先ほどのようにしっかりと女性を抱いた記憶を有していた。ぼくは絶対に手放さないと思っていた。その身体に比べて希美は細かった。痩せているという言葉とはどことなく違う。しなやかな強みみたいなものが確かにあって、身体全体をみなぎっていた。ぼくは包みながら、その溢れるパワーを感じていた。

「飛行機、小さくなった、ほら」ぼくがそうもらすと、希美は振り返って外を見た。
「あ、ほんとだ、飛んでるね」

 あれは、どこに向かっているのだろう。ぼくらはゆっくりと下に向かい、太い支柱によって視界をさえぎられる。ぼくらは軌道に則り一周した。その間に抱き合い、離れた。彼女はその意図を口にしなかった。ぼくもあえて訊かなかった。きちんとした答えなど実際にはないのだろう。なぜ、ぼくはこの和やかな場面でさえ、答えなどという硬質な言葉を無理に組み入れるのだろう。答えを得て、あたたかさを失いかねない状況だってあるのだ。

 ぼくらは降りて首を頭上に向け、観覧車のてっぺんを見た。ぼくらはわずか数分前にそこにいたなどともう信じられなくなっていた。抱きしめた身体ももう遠く感じられる。だが、それは希美の身体の感触ではない。もっとずっと遠くの記憶とぬくもりだ。ある町角での。

「高いとこ、平気なんだね?」と、希美が訊く。
「怖いひともいるんだよね、こういう場所」ぼくはその事実をすっかりと忘れていた。苦手なものがそれぞれある。ぼくの口はもう甘いものなど要求しない。出されたら食べられないこともないが、自分からすすんでという態度ではない。能動的ではなく、受容できるというぐらいだ。「パイロットなんか楽しいだろうね」ぼくはさっきの飛行機の残影を思い出している。
「もうすべてが機械に操縦を任せて、ひとは何もしないっていうよ。乗組員は」
「そうらしいね」

 だが、ぼくらは他にどれほどコントロール下に物事を置けるのだろうか。ぼくが希美を好きにならなかったということは不可能であった。もう目の前にしたときから、ぼくのなかの仕組みが勝手にスイッチを始動させていた。何もままならない。何も譲れない。

 暗くなりかけた空を次の飛行機が飛んでいく。次というのは正しく考えれば間違っており、他に妥当な呼び方もないので次で良かった。反対側に飛び去った飛行機などカウントできない。地上から両側に、四方に離れたいくつもの命。彼らは誰かと別れ、間もなく誰かと再会する。そのスビードは飛行機の能力によって早まっていく。さらにいえばいくら速度が増しても再会できないひととはずっと疎遠のままだ。迎えもなく、放浪者がひとり増えるだけだ。

 すると抱いてとねだった希美の真意は、この淋しい世の中でストレンジャーになることを恐れていたからなのだろうか。ぼくの胸のなかに潜むことによって外界から守られている。しかし、正直にいえば、ぼくのもっと胸の奥には、つまりは最深層部には別のものが眠っており、ぼくはそのものをずっと守っているのかもしれない。頼まれもしないのに。孵らない雛を。

「また飛行機に乗って、どっか旅行したいね」
「そうだね、計画立ててよ」
「簡単に休めるの?」
「休めない。いや、なんとかするよ」

 また飛行機がいる。今度は思ったより大きな音がした。轟音というものに近い。エンジンの音とも違う。夜の闇の空気を引き裂く音。ぼくの胸も正直に垂直に開けば、途端にあのような音をとどろかせるのだろうか。豪快な音。どこか違ったところに移動したいと願うが、それは距離や場所ではない。地球の裏側でもなく、オーロラが空をおおうところでもない。時間軸での話だ。タイムマシンという愚かな、ある面では愉快な解決策を思い出す。ぼくは過去のぼく自身に会う。間違いを犯さないように諭すのだ。すると、ここにいる希美は間違った選択の結果なのか。そんなことはまったくない。ぼくには成功への道しかなかった。ぼくは立ち止まって要求もされないのに希美を強く抱いた。困惑した小さな悲鳴と、第三者の目を意識しての恥ずかしさを隠す言葉をぼくの耳元でささやいた。

「ね、みんな見てるよ」

 だが、ぼくは一切、無頓着であろうと決めた。ぼくをここにとどめるのはこの細い身体だけなのだ。ぼくは細い木にしがみつき強烈な暴風雨に耐えられるか挑むように、まわりの嘲笑と喝采とがつくる風の音をきいた。
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