16歳-19
ぼくは自分に起こったことを記録するのを若さゆえに怠った。若さというのは慢心が許される時代だ。ぼくは幸福のなかであぐらをかく。
あのとき、こういう状態のなかに自分はいたのか、というなつかしさとは別の冷淡な記憶を思い起こしてくれるものもある。ある音楽の一節であったり、本のなかの数章に見つかったりする。その該当部分をなんども味わうことにより、やはり甘いなつかしさのようなものが後から込み上げてくる。もう、失ったものだから、訂正も変更も利かないのだが。
ぼくはサム・クックという歌手の曲にある少年のはじめての恋のうたを耳にする。その少年にとって、世界は美しいところでありつづけ、彼女の電話を通した声は、どんなメロディーよりも美しいものだった。ぼくがもしあの日に日記を書いていたら、まさしくそのような内容になっていただろう。
ぼくのことを知っているのは、この当時で何人ぐらいいたのだろう。せいぜい二、三百人ぐらいだろうか。そのなかで、ぼくのことを最も知ってほしいと思っているのは彼女であり、冷静に考えれば、それは無理であった。ふたりの歴史も浅く、それに比べて過ごす時間も、同じ悪さをするのも友人たちのほうが多かった。では、ぼくは彼女のことをもっとも知っていたのだろうか? 学生のときにとなりに座っていた女子生徒とどれほどの差があるのだろう。ほぼ等しいというぐらいの回答しかない。競馬でなら鼻差という表現がぴったりなぐらいだ。
そこに愛が介在している。そのささいな隙間に愛というエッセンスや媒体が混入している。だから、ぼくは幸福でいられたのであり、電話の声で高揚できたのだ。
すると知るというものは無駄なことであるのか。知識が増えれば愛情もそれにともなって増加するのだろうか。少年についての歌は、それ以降のことは教えてくれない。幸福とともに寝て、翌日の幻滅や失望のことは歌ってくれなかった。また、それは別の歌手や、悲劇的なギターの音色に求めることなのだ。
ぼくは時計を見る。もうこの時間なら彼女は電話をかけてはくれないだろう。昨日、話したばかりなのだ。ぼくはまだどれほど女性というものが会話に興じたかるかさえ知らなかった。無意味そうなおしゃべりを延々とつづけたがる能力。ぼくは無言で集中することを究極の美しさと感じるときもあった。ぼくは壁に背中をつけて本を読む。ひとりが無言で書き、ひとりが無言で読む。その尊さは限りなく美の先端に近かった。しかし、電話がないことで少しがっかりしていることも確かだ。彼女がきょう最後に話した相手は誰なのだろう。そう思いめぐらしながらも、ぼくは嫉妬という醜い感情も知らないほど傲慢で慢心していた。あの若さはもう二度と還ってこないのだ。多分、彼女はぼくのことを想像している。
別々の肉体が離れた場所にある。ぼくらがつながっているという幻想は、幻想であることを誰も証明できない。反対に事実であるということも明らかにならない。電波のようなものもある。それは決してつかめないが、確かにこの世にあった。音もつかまえられない。スピーカーの膜は揺れている。その振動が耳に届くまで数秒もかからない。大きな低音は身体にも響く。音は波動なのだ。彼女がぼくの目の前にいて善の方向で与える影響も、このような目に見えないものなのだろう。ぼくは本を閉じ、疲れた目をいやそうと窓を開ける。遠い空には月がある。あの物体に視線と記憶があるならば、ぼくのきょう一日の動きをどう刻みつけるのだろう。彼女の一日は。会うことも、話すこともしなかったぼくらふたりのつながりを、あの月は見破ることができるのだろうか。ぼくは彼女の家の電話番号を思い出す。それを知っていたからといって、彼女のある内面の核心が分かる訳でもない。ぼくにその番号の所有権がある訳でもない。だが、ぼくが電話をかけることは彼女の家族も知っており、ためらいがちになりながらも彼女につなげる。
そうなのだ、ぼくらふたりは話さない、そして、会わない日もその期間にはあったのだ。毎日、会うということもそれほど困難ではなかったかもしれない。しかし、ぼくは友人たちと夜遅くまで遊んだりした。ぼくは彼女が好きであり、友人たちの間でそれは祝福にもならない、かといって反発もおこさないありのままの事実であった。
ぼくは幸福とともに眠る。この幸福の実態と基盤はどれほどあるのか確かめようともせず、計ることもしない。幸福など、風船のようなものだ。それが宙に浮いている限り、幸福はただそこにあるのだ。手を離さないように、しぼまないように願うだけのことしかできない。しかし、本当のことをいえば、風船がそこにあれば、それら不吉な前兆は一切、想像もできないことなのだ。
ぼくは目を覚ます。きょうの夜は彼女と会えるだろうか。せめて、電話で話せるだろうか。彼女が一日の最後に話す相手はぼくなのだろうか。意志や決定をする権利もありながら、ぼくは成り行きに任せるようでもあった。そして、風船は手元にあった。
ぼくは自分に起こったことを記録するのを若さゆえに怠った。若さというのは慢心が許される時代だ。ぼくは幸福のなかであぐらをかく。
あのとき、こういう状態のなかに自分はいたのか、というなつかしさとは別の冷淡な記憶を思い起こしてくれるものもある。ある音楽の一節であったり、本のなかの数章に見つかったりする。その該当部分をなんども味わうことにより、やはり甘いなつかしさのようなものが後から込み上げてくる。もう、失ったものだから、訂正も変更も利かないのだが。
ぼくはサム・クックという歌手の曲にある少年のはじめての恋のうたを耳にする。その少年にとって、世界は美しいところでありつづけ、彼女の電話を通した声は、どんなメロディーよりも美しいものだった。ぼくがもしあの日に日記を書いていたら、まさしくそのような内容になっていただろう。
ぼくのことを知っているのは、この当時で何人ぐらいいたのだろう。せいぜい二、三百人ぐらいだろうか。そのなかで、ぼくのことを最も知ってほしいと思っているのは彼女であり、冷静に考えれば、それは無理であった。ふたりの歴史も浅く、それに比べて過ごす時間も、同じ悪さをするのも友人たちのほうが多かった。では、ぼくは彼女のことをもっとも知っていたのだろうか? 学生のときにとなりに座っていた女子生徒とどれほどの差があるのだろう。ほぼ等しいというぐらいの回答しかない。競馬でなら鼻差という表現がぴったりなぐらいだ。
そこに愛が介在している。そのささいな隙間に愛というエッセンスや媒体が混入している。だから、ぼくは幸福でいられたのであり、電話の声で高揚できたのだ。
すると知るというものは無駄なことであるのか。知識が増えれば愛情もそれにともなって増加するのだろうか。少年についての歌は、それ以降のことは教えてくれない。幸福とともに寝て、翌日の幻滅や失望のことは歌ってくれなかった。また、それは別の歌手や、悲劇的なギターの音色に求めることなのだ。
ぼくは時計を見る。もうこの時間なら彼女は電話をかけてはくれないだろう。昨日、話したばかりなのだ。ぼくはまだどれほど女性というものが会話に興じたかるかさえ知らなかった。無意味そうなおしゃべりを延々とつづけたがる能力。ぼくは無言で集中することを究極の美しさと感じるときもあった。ぼくは壁に背中をつけて本を読む。ひとりが無言で書き、ひとりが無言で読む。その尊さは限りなく美の先端に近かった。しかし、電話がないことで少しがっかりしていることも確かだ。彼女がきょう最後に話した相手は誰なのだろう。そう思いめぐらしながらも、ぼくは嫉妬という醜い感情も知らないほど傲慢で慢心していた。あの若さはもう二度と還ってこないのだ。多分、彼女はぼくのことを想像している。
別々の肉体が離れた場所にある。ぼくらがつながっているという幻想は、幻想であることを誰も証明できない。反対に事実であるということも明らかにならない。電波のようなものもある。それは決してつかめないが、確かにこの世にあった。音もつかまえられない。スピーカーの膜は揺れている。その振動が耳に届くまで数秒もかからない。大きな低音は身体にも響く。音は波動なのだ。彼女がぼくの目の前にいて善の方向で与える影響も、このような目に見えないものなのだろう。ぼくは本を閉じ、疲れた目をいやそうと窓を開ける。遠い空には月がある。あの物体に視線と記憶があるならば、ぼくのきょう一日の動きをどう刻みつけるのだろう。彼女の一日は。会うことも、話すこともしなかったぼくらふたりのつながりを、あの月は見破ることができるのだろうか。ぼくは彼女の家の電話番号を思い出す。それを知っていたからといって、彼女のある内面の核心が分かる訳でもない。ぼくにその番号の所有権がある訳でもない。だが、ぼくが電話をかけることは彼女の家族も知っており、ためらいがちになりながらも彼女につなげる。
そうなのだ、ぼくらふたりは話さない、そして、会わない日もその期間にはあったのだ。毎日、会うということもそれほど困難ではなかったかもしれない。しかし、ぼくは友人たちと夜遅くまで遊んだりした。ぼくは彼女が好きであり、友人たちの間でそれは祝福にもならない、かといって反発もおこさないありのままの事実であった。
ぼくは幸福とともに眠る。この幸福の実態と基盤はどれほどあるのか確かめようともせず、計ることもしない。幸福など、風船のようなものだ。それが宙に浮いている限り、幸福はただそこにあるのだ。手を離さないように、しぼまないように願うだけのことしかできない。しかし、本当のことをいえば、風船がそこにあれば、それら不吉な前兆は一切、想像もできないことなのだ。
ぼくは目を覚ます。きょうの夜は彼女と会えるだろうか。せめて、電話で話せるだろうか。彼女が一日の最後に話す相手はぼくなのだろうか。意志や決定をする権利もありながら、ぼくは成り行きに任せるようでもあった。そして、風船は手元にあった。