爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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11年目の縦軸 38歳-20

2014年03月18日 | 11年目の縦軸
38歳-20

 ぼくが固い椅子にすわって絵美を待っていると、後ろから抱きつくひとがいた。絵美であることは直ぐに分かったのだが、当然ぼくは驚いた。迷惑に近い声も出す。
「なんだ、びっくりした」そう言っても彼女は離さない。「どうしたんだよ、恥ずかしいよ」
「なんで?」彼女は挑みかかるような目をする。「これが、恥ずかしいの? わたしとだから、恥ずかしいの」

 たまにわざとトラブルを作ろうとすることが絵美にはあった。こうなると引っ込みがつかなくなる。ぼくは黙って後ろから抱きつかれたままになる。通りすがりのあるひとは、ぼくが病気で彼女が必死で看病しているのだと誤解するひともいた。近づいて声をかけようとして止めた。きつねにつままれるという模範のような表情を残し、忙しい帰路の最中にわざわざ気にかけた自分に照れたかのようにして去った。
「ほろ、変に思うひともいるから」
「もう、離してあげる」と言って絵美は身体を動かした。

 ぼくは立ち上がり、絵美の顔を見る。どことなくまだ不機嫌であった。ぼくらはもう人目をひくことはなく民衆の一員になった。

 彼女は昨日、歯医者に行った。予定を変更して、会うのは今日になった。

「忘れてた、歯医者に行くんだった」と急に用事を思い出し、ぼくはすることがなくなった。友人に電話をするもみなそれぞれの用があった。子どものときに計画も何もなく突然、家の前まで行って遊びに誘った瞬間がなつかしかった。ぼくらはたくさんの予定に囲まれ、日々、忙殺されていった。誰かの歓迎会や送別会がある時期になると開かれ、有無をいわさず参加することが要求される。ぼくの友人たちの結婚のピークは去り、休日にそうした予定はほぼなくなった。代わりに誰かがいなくなった。ぼくらを覚えているひとがひとり減れば、ぼく自身の何かもその分、比例して減った。確証はないけれども、漠然と思い当った。複数の視線の先の焦点に証拠やアリバイがあるはずなのだから。

 絵美は笑う。とくに口元に変化がある訳でもない。六十億ぐらいの人々は顔で一先ず識別される。同じ顔はない。たまに酷似しているひともいるが、一遍に会うことはほとんどない。ぼくはこの絵美の口だけを見て、彼女だと判断できるのだろうかと思う。答えは、不可能に近い。医者は口を開けてなかを見ると、患者の区別がつくのか想像する。さらにそれを絵美にも言った。

「カルテに記入するぐらいだから、覚えていないんじゃないの。ね、いま、わたしの口だけじゃ、分からないと言ったの?」
「分かんないよ。耳でも、目でも」
「じゃあ、なにで分かるの?」
「その組み合わせで」
「福笑いと同じだね」
「同じだよ」

 彼女は笑った。意図的な不機嫌はちょっとずつ消えはじめているようだった。ぼくらの脳は数か月後の顔の変化を想像でき、目の前にしても対応できる。「ちょっと老けたね」とか「元気がなさそうだな」とかの細かい変化にも。反対に大幅の変化でまったく分からないこともある。もっと大元ではそのひとの記憶がすっぽりと抜け落ちていることもたまにだがあった。相手は不審がる。とくにその思いが一方通行だった場合には。ぼくが内に眠らせている女性たちがぼくのことをきれいさっぱり忘れ去ってしまっていたら、やっぱり、確かにがっかりするだろう。だが、もうそれを確かめる機会さえないのだ。

「メガネのあるなしとか、ぼくの髪の毛が急になくなってしまったら、絵美だって、もうぼくに気付かないよ」
「分かるよ。犬だって飼い主のことが分かるぐらいだから」
「嗅覚が数倍もいいよ。優秀なんだよ」
「わたしも匂いの一部を嗅げば、見つけられるよ。麻薬犬みたいに」
「どこにも逃げないし、隠し事もないから、探さなくてもいいけどね」

 昨日、ぼくは結局、あれからひとりで本屋に寄り、ビールを飲んで軽食をつまんだ。ビルの裏にあるリニューアルされた映画館の看板を見て、上映時間を確認してひとつに入った。毛足の長い絨毯はいくらか居心地の悪い気持ちを起こさせた。ぼくがもし誰かを愛するという能力を有していなかったら、映画を見て感動することもないのだろうなと想像する。誰かを愛し、永続しなかったからこそ、失恋に悩む主人公のことが理解できた。客席からきこえる女性がしくしくと泣く音が段々と大きくなっていった。クレッシェンド。ぼくは孤独を感じる。その涙は受け止められる対象があるので、ここで発生したのだ。横にいる誰かが。ぼくは受け止めるべき誰かもいなく、受け止めさせることもできない。しかし、その孤独を大切なものなのだと仮定する。

 ぼくは明るくなった館内に目がなれるまでそこに座っていた。映画は本日の最終回で悲しげな閉館を告げるメロディーがこだまする。その音は共通認識である。高校野球の開始のサイレンと同じように。

 ぼくらの人生の重要な事態のはじめも終わりも、このように解説が不要なぐらいに無意味な音で教えてほしかった。だが、いくら教えてもらったからといって何がどう変わる訳でもない。

 ぼくは目の前にいる絵美が昨夜の映画を見たとしたら、泣いたであろうか考える。涙のスイッチや怒りに直結するスイッチも多少、ひとによって異なっている。絶対に同じものなど、ひとが関わることには起こり得ない。でも、どこかで似てもいる。だから、ぼくらは映画で泣くこともできるのだし、ぼくは同じ過ちを繰り返しながらも、懲りずに恋をしている。ぼくがきっかけであるのか、この絵美の登場が引き金であるのかさえ本当は分からない。また頭だけで分かるようなことでもなかった。