爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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11年目の縦軸 38歳-22

2014年03月25日 | 11年目の縦軸
38歳-22

 破綻こそが美であった。美はすなわち破綻だった。

 乱れた髪。起き抜けの絵美の腫れぼったいまぶた。明滅する絵美の家の洗面所の蛍光灯。
 完全な状態など、気分をふくめて毎日をのどかではなく生きていく以上、そうやすやすと起こらなかった。

 ぼくは減点方式を採用しているわけではない。ただのありのままを受け止めることだけを自分に強要しているのだ。自分も完全ではなかった。その証拠として履けなくなったジーンズがあり、そのウエストラインを他人の目で眺めていた。あれは過去の自分であり、未来に決して訪れないことが確定したあきらめを通過した自分がいまであった。

 ぼくは使い捨ての歯ブラシを口に入れた。洗面所の前に立て掛けてある絵美の歯ブラシは買い替えの時期を逸しているようでもあった。新品ではない。かといってもうしばらくの使用に耐えられないほど摩耗してもいない。ぼくは替えの蛍光灯を頭のなかにメモし、同じ場所に絵美と、もしかしたらぼくの常用の歯ブラシの購入も検討する。

 歯ブラシでさえさまざまなことを主張した。ぼくは口をゆすぎ、毛羽だったタオルで顔をぬぐった。

 部屋に戻ると、絵美はまた寝ていた。ぼくは早い時間に用事があった。その前に服を着替え、近くの商店街を歩いた。そのなかの一店で蛍光灯と歯ブラシを二つ買い、また絵美の家に戻った。玄関を開け、テーブルのうえに袋のまま載せた。

「もう、帰るの?」
「うん、玄関のカギをしめてから、もう一度、寝た方がいいよ」
「もう、起きるよ」

 彼女は素足のままで床に降りる。ぼくは彼女のアキレス腱に貼られた絆創膏を見た。靴ずれでもしたのだろう。少しだけ痛々しかった。

 ぼくはドアを閉めると背中でカギがしまる音をきいた。またベッドにもぐりこむのか、起きてテレビでも点けるのか分からなかった。蛍光灯ぐらい取り替える時間も余裕もあったのにな、とぼくは駅のホームのベンチにすわり考えていた。これも完璧ではない自分の行動の一端なのだった。

 ぼくは大して混んでいない車内で吊り革につかまっている。絵美のくるぶしの形や、さっきの絆創膏のことを思いだそうとしていた。ぼくは遠い過去にいる希美の同じものに嫉妬を挑もうとした自分の幼稚さを恥じてひとりで笑った。ほくそ笑むという表現は、こんな窓越しの景色をみながら浮かべるのがぴったり合うような気持だった。

 ぼくはある送別会のためにプレゼントを買う役目を負っていた。絵美もいっしょに誘えばよかったなとひとりで選びながら後悔している。だが、ひとりでデパートのなかを歩きながら、近くにいない彼女を思い出している自分というのにも不快感もなく好ましく感じていた。ひとは不在というなかにも存在を見出す。まったくの不在など、一度、関係が成立した以上、起こる訳もなかった。ぼくは知らないひとを想像できないし、視覚と記憶はほぼ等しいようにも思えた。

 ぼくはシックな色合いのネクタイを探していた。自分ではしないようなもの、というのが唯一の基準だった。冒険が皆無で、誰でも、どの場でも違和感がないもの。そのことだけが頭のなかを縦横無尽に交差していた。

 すると、「お探しのものは?」という感じで若い女性店員が近づいてきた。若い女性、という言葉だけではそこにはっきりとした個性など存在しない。漠然とした総称だった。ぼくはそちらを見てもいないのに、若い女性ということだけは分かっていた。男性の本能であるのだろうか。

 ぼくは頭にあるイメージをどう説明したらいいか考えながら、そちらを見る。無地か無地に近い模様で。若い女性には個性がうまれる。そのひとりを見極めるだけの個性が。しかし、意に反して、ぼくはその個性を相似という観点をもちこみ、打ち消してしまう。

 彼女は希美に似ていた。あのときの、十一年前の当時の希美に似ていた。ぼくは希美を完全な女性の地位に置いていた。だから、似ているということ自体だけで、その座を揺るがす可能性も潜んでいたのだった。

「お客様がご自身でお付けになる……」
 当然の疑問だ。ぼくが、ここにいる。しかし、ぼくは首回りのゆるんだ普段着であり、会社員としての格好が分かりにくいのかもしれない。
「いや、送別会のために用意するプレゼントなんですが」

 彼女は不思議と残念そうな表情をした。もしかして色彩の資格なんかをもっていて、当人が目の前にいればぴったりと合う柄を選べることができたのかもしれない。あるいは、ぼくに合うものを既に選んであり、それをぼくの首筋に当てたかったのかもしれない。購入をそっと後押しする笑顔とともに。どちらも、ぼくの想像の領域で発生した仮の質問と一先ずの訂正可能な答えだった。

 目が慣れると希美に似ているというのはぼくの思い込みに過ぎないことが分かった。彼女がプレゼントしてくれた日を思い出させようと、ぼくの内部のなにかが感情を突き上げ、もしくは叩いたのだろう。過去は出口を探している。

 ぼくは冷静になり、予算ないで収めることだけを念頭に置き、その余った分で同じ色合いのハンカチを買った。ぼくはあげる相手をもう思い出さなくなるだろう。そう遠くないうちに。でも、まだまだ居続けるひともいた。ぼくにはどうやら選択する権利もないようだった。
コメント
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