16歳-23
五、六年間つるんだ友人がいる。他にも長さの前後はあるが、複数名、地元にいた。とくに目指したわけでもないが遊んでいるうちにある一定の関係が構築され、そこで止まり、段階を追って、さらに深まることもこれ以上になかった。沸点を変えられないように、友人にも限界があるのだ。以前は、ぼくらは体育館で跳び箱を飛びあうような仲だったが、次第に同じ部活動をして、タバコを吸い、酒を飲むような間柄に成長させる。
法律というものを視野に入れるならば、少しフライングしている。正当化する気もないが、アメリカの中西部で親の農作業を手伝う若者がトラックを運転したり、軽い飛行機で農薬を散布することはある年齢に達していないというだけで極悪人として処罰されるだろうか。もちろん、ぼくは問題をすり替えている。
同性同士の年月が親しさを伴っていたとしても絶対に離れられないという境地になど行かないことを説明するためにあえて話題にしている。ぼくと女性との関係性の期間は比較すれば圧倒的に短い。だが、そこには深みもあった。ふたりでそこで溺れてしまうことも望んでいた。
友人たちと酒を飲む。あまりに小遣いが足りないときは、友人の親が通う店にあとから行って同席した。自分の親とそういう関係を作れなかった自分は、友人の父のいつもよりほぐれた表情を目にした。誰もぼくらの未成熟さをとがめない環境だった。しかし、酔って大騒ぎするという若者の特権は、礼儀上、許されてもいなかった。
友人たちと数人でぼくらは酒を飲んだ。週末の夜にぼくの彼女も連れて行く。グループになることによって同性との関係も、それぞれの役割もいびつになることはない。ぼくは、どこにいても自分を取り繕うことや美化することをしないだろうと自分の行動倫理を信じていた。女性たちが酔いだすと、友人のひとりは保護者的な雰囲気を見せた。彼には同席する女性はいない。帰途、それほど寒くない道を歩きながら、ぼくの彼女は彼の上着を羽織っていた。ぼくも彼女も拒みもせず、そのままの格好でぼくらは歩いていた。
もう夜中に近いころだと思うが、別の友人の家に寄る予定もあった。ぼくら男性三人は少し酔ったにぎやかさで彼の家に向かう。徒歩で二十分ぐらいはあった。そこは彼の家の仕事場として借りているらしい一軒家で、夜には家族は誰もいなかった。食事や入浴はそのそばの本当の家で済ましていたと思うが、休日や夜は彼の個人の部屋として機能していた。ぼくはそこで野球のデー・ゲームを見て、オールスターの選手の打撃の真似をした。
ブルース・スプリングスティーンのあのアルバムも聴いた。CDは発売されたばかりのころだと思うが、そこにあったのはLPだった。そのロック・スターは自分の信条とは別のところでスターになっていた。祭り上げられたというほうが正しいのかもしれない。それは商品になることであり、製品として流通させることも意味合いとしてあった。虚構というものを散りばめないと、製品も流通も完成しない。これを手にしたあなたの昨日より幸せな生活。
彼はぼくらのくだけた様子に戸惑っていた。ぼくは彼女と過ごしたことで浮つき、また酔いの加減で上の空になっていた。接点を一致させるにはぼくらのテンションはかけはなれていた。ぼくらは音楽を聴きながら、いつの間にか眠ってしまう。そこは大音量で音楽を聴いても、まわりに音がもれる心配もなかった。しかし、若さの強力な睡魔は簡単に耳の自然の用を果たせないまま勝ってしまう。
翌朝、栄養バランスや何品目の食材など念頭にないぼくらは大きなやかんで大量のお湯を沸かしてカップ麺を頬張った。休日にもガソリン・スタンドでのバイトがある友人はひとりで帰った。ぼくらは釣竿を探し、近くの川でリールの糸を遠くまで投げた。
泳ぐこともできない、足を浸からすことも敬遠するような水のなかで生きる鯉がいる。間もなく友人の竿はしなり、リールを巻き上げると鯉の口のはしに針がささっていた。いったん地上にあげられた魚は、針を抜き取られると、またもとの汚れた川に戻された。ぼくらはこの汚い川が流れるところが自虐的ではなく似合っていた。そこでたくましく生きる魚もいた。もちろん、ぼくの可愛らしい女性もこの町にいた。直ぐ声をきくことはできない。きちんと電線を通じないと、ぼくらの音声は交わされないのだ。
ぼくはひさびさに家に帰る。手は生臭い匂いがした。鯉を導く餌。もう触ることも減っていくだろう。ぼくらは夢中になる対象を刻々と変化させていく。
自分の部屋で、ぼくは一瞬たりとも友人たちのことを考えない。嫌いなわけではないが、まぶたの裏にいるのは彼女だけである。だが、ぼくらは約束をしていっしょに釣りなどしないだろう。夜通し、ばか騒ぎもしないだろう。野球選手のバッテイングの姿を真似し合うこともしない。しかし、愛おしさはそれらとは別の次元にあった。深まることもできるし、関係が一遍に切れてしまうことも起こり得た。親しい友人というのは、そう考えれば宝であった。それより勝る宝もここにあった。鑑定士もいない。いや、ぼくがその大切さを比較し検討するのだ。同じ土俵に置くのは、あるいは間違っているのかもしれない。もっと長い時間をかけゆっくりとコーヒー豆を濾すように、判断も結論も先延ばしにしたいと思う。即答もできず未来に決断を委ねるしか方法もなかったのだが。
五、六年間つるんだ友人がいる。他にも長さの前後はあるが、複数名、地元にいた。とくに目指したわけでもないが遊んでいるうちにある一定の関係が構築され、そこで止まり、段階を追って、さらに深まることもこれ以上になかった。沸点を変えられないように、友人にも限界があるのだ。以前は、ぼくらは体育館で跳び箱を飛びあうような仲だったが、次第に同じ部活動をして、タバコを吸い、酒を飲むような間柄に成長させる。
法律というものを視野に入れるならば、少しフライングしている。正当化する気もないが、アメリカの中西部で親の農作業を手伝う若者がトラックを運転したり、軽い飛行機で農薬を散布することはある年齢に達していないというだけで極悪人として処罰されるだろうか。もちろん、ぼくは問題をすり替えている。
同性同士の年月が親しさを伴っていたとしても絶対に離れられないという境地になど行かないことを説明するためにあえて話題にしている。ぼくと女性との関係性の期間は比較すれば圧倒的に短い。だが、そこには深みもあった。ふたりでそこで溺れてしまうことも望んでいた。
友人たちと酒を飲む。あまりに小遣いが足りないときは、友人の親が通う店にあとから行って同席した。自分の親とそういう関係を作れなかった自分は、友人の父のいつもよりほぐれた表情を目にした。誰もぼくらの未成熟さをとがめない環境だった。しかし、酔って大騒ぎするという若者の特権は、礼儀上、許されてもいなかった。
友人たちと数人でぼくらは酒を飲んだ。週末の夜にぼくの彼女も連れて行く。グループになることによって同性との関係も、それぞれの役割もいびつになることはない。ぼくは、どこにいても自分を取り繕うことや美化することをしないだろうと自分の行動倫理を信じていた。女性たちが酔いだすと、友人のひとりは保護者的な雰囲気を見せた。彼には同席する女性はいない。帰途、それほど寒くない道を歩きながら、ぼくの彼女は彼の上着を羽織っていた。ぼくも彼女も拒みもせず、そのままの格好でぼくらは歩いていた。
もう夜中に近いころだと思うが、別の友人の家に寄る予定もあった。ぼくら男性三人は少し酔ったにぎやかさで彼の家に向かう。徒歩で二十分ぐらいはあった。そこは彼の家の仕事場として借りているらしい一軒家で、夜には家族は誰もいなかった。食事や入浴はそのそばの本当の家で済ましていたと思うが、休日や夜は彼の個人の部屋として機能していた。ぼくはそこで野球のデー・ゲームを見て、オールスターの選手の打撃の真似をした。
ブルース・スプリングスティーンのあのアルバムも聴いた。CDは発売されたばかりのころだと思うが、そこにあったのはLPだった。そのロック・スターは自分の信条とは別のところでスターになっていた。祭り上げられたというほうが正しいのかもしれない。それは商品になることであり、製品として流通させることも意味合いとしてあった。虚構というものを散りばめないと、製品も流通も完成しない。これを手にしたあなたの昨日より幸せな生活。
彼はぼくらのくだけた様子に戸惑っていた。ぼくは彼女と過ごしたことで浮つき、また酔いの加減で上の空になっていた。接点を一致させるにはぼくらのテンションはかけはなれていた。ぼくらは音楽を聴きながら、いつの間にか眠ってしまう。そこは大音量で音楽を聴いても、まわりに音がもれる心配もなかった。しかし、若さの強力な睡魔は簡単に耳の自然の用を果たせないまま勝ってしまう。
翌朝、栄養バランスや何品目の食材など念頭にないぼくらは大きなやかんで大量のお湯を沸かしてカップ麺を頬張った。休日にもガソリン・スタンドでのバイトがある友人はひとりで帰った。ぼくらは釣竿を探し、近くの川でリールの糸を遠くまで投げた。
泳ぐこともできない、足を浸からすことも敬遠するような水のなかで生きる鯉がいる。間もなく友人の竿はしなり、リールを巻き上げると鯉の口のはしに針がささっていた。いったん地上にあげられた魚は、針を抜き取られると、またもとの汚れた川に戻された。ぼくらはこの汚い川が流れるところが自虐的ではなく似合っていた。そこでたくましく生きる魚もいた。もちろん、ぼくの可愛らしい女性もこの町にいた。直ぐ声をきくことはできない。きちんと電線を通じないと、ぼくらの音声は交わされないのだ。
ぼくはひさびさに家に帰る。手は生臭い匂いがした。鯉を導く餌。もう触ることも減っていくだろう。ぼくらは夢中になる対象を刻々と変化させていく。
自分の部屋で、ぼくは一瞬たりとも友人たちのことを考えない。嫌いなわけではないが、まぶたの裏にいるのは彼女だけである。だが、ぼくらは約束をしていっしょに釣りなどしないだろう。夜通し、ばか騒ぎもしないだろう。野球選手のバッテイングの姿を真似し合うこともしない。しかし、愛おしさはそれらとは別の次元にあった。深まることもできるし、関係が一遍に切れてしまうことも起こり得た。親しい友人というのは、そう考えれば宝であった。それより勝る宝もここにあった。鑑定士もいない。いや、ぼくがその大切さを比較し検討するのだ。同じ土俵に置くのは、あるいは間違っているのかもしれない。もっと長い時間をかけゆっくりとコーヒー豆を濾すように、判断も結論も先延ばしにしたいと思う。即答もできず未来に決断を委ねるしか方法もなかったのだが。