16歳-22
年上の女性に誘われ、性体験をしたものもいた。友人のうちに。年下の女性(十代中盤にも満たない)と関係をもった友人もいた。自分にも確固たる欲望がありながらも、ぼくはその気持ちから次第に遠ざかっていく。自分だけが潔癖であると必死に証明しようとしているのでもない。ある種の魚が水族館で優雅に泳いでいるのを見ても、殊更に味覚と結びつけたり、舌先にのせた感覚を思い出したりしないように、ぼくも彼女をそういう目で見ていた。あるいは見なくなっていた。
欲望はある。実際、数年前ぼくは卑怯な方法で彼女の胸を触ったことがあった。その柔らかみを感じながらも、しなければよかったという悔いも同時にもっている。だから、延長線上にその肉体的なさらなる接触への願望も少なからずあった。健康な十六才だ。無尽蔵に石油は産出する。いずれ、そうなるのかもしれないが性急にそうする必要もなかった。なんだか、言い訳ばかりしているようだ。
先輩の女性が友人を呼ぶ。それは過去に起こったことであり、ぼくらは内緒でという注文を受け、事後に聞いている。ぼくはそこに女性の根源的な欲を発見する。その女性には交際相手がいる。ぼくらはその男性の存在を知っている。その当時に、もしばれてしまったら後輩であるぼくの友人はどれほどの手酷い目に合うか容易に想像ができた。それを乗り越えてもふたりは結ばれる意欲があった。欲の基本として無我夢中という境地があった。しかし、それらは正反対の感情である冷静さによって段取りされたのであろう。
ぼくはこころのなかで少しうらやましいとも思っている。このことを文章で残したがる自分の無鉄砲で浅ましい欲にも嫌悪する。もう、そっと、歴史の彼方で忘れさせてあげるべき題材なのだ。だが、ぼくは自分との表裏一体となり得た彼の存在や動向を記憶のなかから捨て切れずにいる。
ぼくの彼女とその先輩をぼくは同列に置けるのだろうか? ぼくと友人が似通った環境で育ったならば、彼女らも等しいはずだった。同じ欲にコントロールされ、ときには支配下に置き、ときには制御不能となる。ぼくはそこに向かって何も準備していない。充分に与えられ、それ以上に奪い取るべきものもない。ぼくはずるずると楽観視していただけなのかもしれなかった。手痛い場面に遭遇するまでは多分、正解だったのだろう。誰が穏やかな波を見て津波を想像するだろうか。
ひとつの物体をすすんで誰かに預ける。恋と欲との差などもう決してない。また分離させる必要もないのだろう。友人と女性の先輩には恋というものはなかったように思えた。そこには契約も購買もない。ただのテスト。お試し期間。サンプルとしての化粧品。ぼくにそうしたものたちを想像させた。お手軽さがあり、また失うものはひとつとしてない。そのときに本物の交際相手にばれてしまったら互いにとって災難だが、既にその効力も及ばない時期になっていた。
しかし、彼らは当事者だった。経験したものだけが富士山の頂上の景色の感想をもてた。日の出の美しさを描写し、賛美する権利があった。その途中の道でいくら薄汚れようが、風景と達成した自身の神々しさに変わりはない。ぼくは汚れない代償として、その到達地での凛々しさを宣言できないでいた。
ぼくらは唇だけで互いを感じる。ぼくらが別れる際にはすでに慣例となっていた。数秒だけぼくらは黙り、儀式を重んじる敬虔な信者のように外からもたらす邪念を捨てようとしている。研ぎ澄まされた愛はそれで完成されたものとなった。これ以上、ぼくらはどれだけ身を捧げれば良かったのだろう。
ぼくもあの泥に入るべきだったのかもしれない。ひざまで浸かり、顔に泥が跳ねても、そのままにしていれば良かったのかもしれない。何がぼくを止め、なにがぼくを抑え込んだのだろう。
友人は甘美という表情をつくらなかった。苦い経験をしたひとのように、例えば、意に反して戦場におもむくため招集されたかのように語った。だが、ぼくらはその戦地を望んでいた。相手というのはなぜだか漠然として、どちらかといえば、薄っぺらな意味ももたない女性のほうが好ましかった。その方が敵として与しやすいし、戦いやすい。倒れても、罪悪感を抱かなくてもいい。ぼくは実行者ではないために、地図だけで戦況と有利不利を判断する参謀のような態度を捨てていなかった。拘泥すればするほど、地図は立体感を当然のこと与えてくれない。地図を放り投げ、ぼくはそのなかを、銃弾を避けながらひたすら駆け抜けるしか現実にする方法はないのだろう。
ぼくは重く考えすぎている。ふたりで楽しむこともできるのだ。砂浜でビーチ・ボールを交互にトスし合うような延長で。大きな迷路を楽しみながらすすむような当てずっぽうさで。ぼくはひとつの映像を思い出す。彼女と遊園地にいる。鏡張りの迷路があった。ぼくらは油断せずにゆっくりとすすむ。そのなかに紛れ込んだひとりの少年は泣き叫びながら出口を探し、小走りに右往左往している。またたく間に彼は四方にぶつかり、別の角度の鏡の壁にも頭や額を打ちつづける。その為、大げさに加速度的に泣き声をこだまさせる。ぼくと彼女は困惑しながらも笑ってしまう。手をちょっと全面に出すだけでよいのだ。ぼくらはゆっくりとゴールに向かう。おそらく、ぼくも彼女に対してあのときのような心持ちだったのだろう。性急ではなく、ゆっくりと。自然にゴールに向かうように。泣き叫びもせずに。
年上の女性に誘われ、性体験をしたものもいた。友人のうちに。年下の女性(十代中盤にも満たない)と関係をもった友人もいた。自分にも確固たる欲望がありながらも、ぼくはその気持ちから次第に遠ざかっていく。自分だけが潔癖であると必死に証明しようとしているのでもない。ある種の魚が水族館で優雅に泳いでいるのを見ても、殊更に味覚と結びつけたり、舌先にのせた感覚を思い出したりしないように、ぼくも彼女をそういう目で見ていた。あるいは見なくなっていた。
欲望はある。実際、数年前ぼくは卑怯な方法で彼女の胸を触ったことがあった。その柔らかみを感じながらも、しなければよかったという悔いも同時にもっている。だから、延長線上にその肉体的なさらなる接触への願望も少なからずあった。健康な十六才だ。無尽蔵に石油は産出する。いずれ、そうなるのかもしれないが性急にそうする必要もなかった。なんだか、言い訳ばかりしているようだ。
先輩の女性が友人を呼ぶ。それは過去に起こったことであり、ぼくらは内緒でという注文を受け、事後に聞いている。ぼくはそこに女性の根源的な欲を発見する。その女性には交際相手がいる。ぼくらはその男性の存在を知っている。その当時に、もしばれてしまったら後輩であるぼくの友人はどれほどの手酷い目に合うか容易に想像ができた。それを乗り越えてもふたりは結ばれる意欲があった。欲の基本として無我夢中という境地があった。しかし、それらは正反対の感情である冷静さによって段取りされたのであろう。
ぼくはこころのなかで少しうらやましいとも思っている。このことを文章で残したがる自分の無鉄砲で浅ましい欲にも嫌悪する。もう、そっと、歴史の彼方で忘れさせてあげるべき題材なのだ。だが、ぼくは自分との表裏一体となり得た彼の存在や動向を記憶のなかから捨て切れずにいる。
ぼくの彼女とその先輩をぼくは同列に置けるのだろうか? ぼくと友人が似通った環境で育ったならば、彼女らも等しいはずだった。同じ欲にコントロールされ、ときには支配下に置き、ときには制御不能となる。ぼくはそこに向かって何も準備していない。充分に与えられ、それ以上に奪い取るべきものもない。ぼくはずるずると楽観視していただけなのかもしれなかった。手痛い場面に遭遇するまでは多分、正解だったのだろう。誰が穏やかな波を見て津波を想像するだろうか。
ひとつの物体をすすんで誰かに預ける。恋と欲との差などもう決してない。また分離させる必要もないのだろう。友人と女性の先輩には恋というものはなかったように思えた。そこには契約も購買もない。ただのテスト。お試し期間。サンプルとしての化粧品。ぼくにそうしたものたちを想像させた。お手軽さがあり、また失うものはひとつとしてない。そのときに本物の交際相手にばれてしまったら互いにとって災難だが、既にその効力も及ばない時期になっていた。
しかし、彼らは当事者だった。経験したものだけが富士山の頂上の景色の感想をもてた。日の出の美しさを描写し、賛美する権利があった。その途中の道でいくら薄汚れようが、風景と達成した自身の神々しさに変わりはない。ぼくは汚れない代償として、その到達地での凛々しさを宣言できないでいた。
ぼくらは唇だけで互いを感じる。ぼくらが別れる際にはすでに慣例となっていた。数秒だけぼくらは黙り、儀式を重んじる敬虔な信者のように外からもたらす邪念を捨てようとしている。研ぎ澄まされた愛はそれで完成されたものとなった。これ以上、ぼくらはどれだけ身を捧げれば良かったのだろう。
ぼくもあの泥に入るべきだったのかもしれない。ひざまで浸かり、顔に泥が跳ねても、そのままにしていれば良かったのかもしれない。何がぼくを止め、なにがぼくを抑え込んだのだろう。
友人は甘美という表情をつくらなかった。苦い経験をしたひとのように、例えば、意に反して戦場におもむくため招集されたかのように語った。だが、ぼくらはその戦地を望んでいた。相手というのはなぜだか漠然として、どちらかといえば、薄っぺらな意味ももたない女性のほうが好ましかった。その方が敵として与しやすいし、戦いやすい。倒れても、罪悪感を抱かなくてもいい。ぼくは実行者ではないために、地図だけで戦況と有利不利を判断する参謀のような態度を捨てていなかった。拘泥すればするほど、地図は立体感を当然のこと与えてくれない。地図を放り投げ、ぼくはそのなかを、銃弾を避けながらひたすら駆け抜けるしか現実にする方法はないのだろう。
ぼくは重く考えすぎている。ふたりで楽しむこともできるのだ。砂浜でビーチ・ボールを交互にトスし合うような延長で。大きな迷路を楽しみながらすすむような当てずっぽうさで。ぼくはひとつの映像を思い出す。彼女と遊園地にいる。鏡張りの迷路があった。ぼくらは油断せずにゆっくりとすすむ。そのなかに紛れ込んだひとりの少年は泣き叫びながら出口を探し、小走りに右往左往している。またたく間に彼は四方にぶつかり、別の角度の鏡の壁にも頭や額を打ちつづける。その為、大げさに加速度的に泣き声をこだまさせる。ぼくと彼女は困惑しながらも笑ってしまう。手をちょっと全面に出すだけでよいのだ。ぼくらはゆっくりとゴールに向かう。おそらく、ぼくも彼女に対してあのときのような心持ちだったのだろう。性急ではなく、ゆっくりと。自然にゴールに向かうように。泣き叫びもせずに。